跡部の踊り念仏とは? わかりやすく解説

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跡部の踊り念仏

名称: 跡部の踊り念仏
ふりがな あとべのおどりねんぶつ
種別1: 民俗芸能
保護団体名: 跡部踊り念仏保存会
指定年月日 2000.12.27(平成12.12.27)
都道府県(列記): 長野県
市区町村(列記): 佐久市大字跡部
代表都道府県 長野県
備考
解説文:  跡部の踊り念仏は、太鼓中心に据えて、そのまわりを、踊り手念仏唱えたり、鉦【かね】を打ち鳴らしながら輪になって踊るものである鎌倉時代に、諸国まわって念仏広めた時宗じしゅう】の開祖【かいそ】の一遍上人いっぺんしょうにん】が、弘安二年(一二七九)に、現在の長野県佐久市訪れ念仏供養行ったところ、人びと念仏唱えながら自然に踊りだした。これが跡部の踊り念仏の始まりであると伝えられる。この踊り念仏は、念仏唱え鉦や太鼓ひたすらたたき、集団で踊るうちに、無我の境地にはいるというもので、当時人びと広く受け入れられその後佐久周辺踊り念仏が行われた。なお当時跡部村に市が立ち、その広場踊りの場となったため、後も跡部村踊り念仏中心になっていった考えられている。天保十一年(一八四〇)の記録には、跡部の踊り念仏に遠近百かから参加があったことが記されている。
 跡部の踊り念仏は、以前地元西方寺さいほうじ境内にある観音堂縁日である四月十七日に行われ、後に三月中旬日曜日になったり、あるいは春の彼岸に近い日曜日となったりしたが、現在は四月第一日曜日に、同寺の本堂行われている。
 一連の行事は、西方寺本堂に、二間(約四メートル四方ドウジョウ道場)と呼ばれる所を組み立てることから始まる。この道場は周囲板塔婆いたとうば】を立てた垣を巡らして布で屋根のように覆い四方には発心ほっしん】、修行しゅぎょう】、菩提【ぼだい】、涅槃【ねはん】と呼ばれる鳥居【とりい】型の門を設け四隅光明遍照などと記された青・赤・白・黒の旗を飾りつけたもので、地元では土葬の折に覆った天蓋てんがい】が原形といわれている。
 跡部の踊り念仏は、太鼓打ちだしに始まり、「南無阿弥陀仏」を繰り返し唱えるヒラネンブツ(平念仏)へと続きその後太鼓と鉦に合わせた踊りとなる。ドウジョウ中央数珠【じゅず】をかけた二基の太鼓置かれ八人一組踊り手数組が入れ替わりドウジョウ入り太鼓のまわり念仏唱えたり、踊りながら左回りにめぐる。踊り手八人のうち最初二人サンシキ呼ばれる音頭取りであり、続く六人胸前に鉦をつり下げ撞木しゅもく】を手にしている。
 踊り手ははじめ、ドウジョウ向かって目を閉じて座っており、太鼓打ち鳴らされるとそれを合図一人ずつ立ち上がり撞木を手に持ち合掌する。そのまま撞木持った手を掲げてドウジョウに入る。踊り手八人ドウジョウ入り終えたところで「南無阿弥陀仏」を唱えるヒラネンブツとなる。太鼓合図合わせて全員念仏唱えながら左回りにめぐる。ヒラネンブツが終わるとまた太鼓打ちだされ、踊り手は鉦を打ち始め太鼓と鉦にあわせて跳ねるようにして踊りだす。次第太鼓と鉦のテンポが速まり、それに合わせて踊り激しさ増し踊り手身体前後屈曲しながら左右前後飛び跳ね踊る。ひとしきり踊った後、踊り次第平静さ取り戻し踊り手入場するときと同じ所作しながら順次ドウジョウ出て元の座に戻る。
 このように跡部の踊り念仏は、踊り手踊りながら法悦境地に至るという踊り念仏本来の姿うかがわせるもので、芸能変遷過程示し地域的特色顕著である。
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跡部の踊り念仏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/07 05:57 UTC 版)

跡部の踊り念仏(あとべのおどりねんぶつ)は、長野県佐久市跡部[1]に伝わる郷土芸能鎌倉時代時宗を興した一遍踊り念仏を起源とし、国の重要無形民俗文化財に指定され[2]、2022年にはユネスコ無形文化遺産に登録された[3]

概要

一遍は、佐久の伴野荘小田切郷で踊り念仏を最初に行ったと言われ、今もその伝統が跡部地区に継承されている。本来は野外で踊られていたが、現在は浄土宗西方寺の本堂内に「道場」を設置し、毎年4月に行われる。男女の踊り手が、太鼓を打ったり、念仏を唱えたりする。かつては佐久地方の各地に踊り念仏があったが、西方寺に残るもの以外は消滅した[4]

歴史

一遍が当地に流罪となった伯父の河野通末を訪ねて来訪した際に、紫色の雲を見て、念仏を唱えながら踊ったという。跡部の踊り念仏は、江戸時代には旧暦2月に三日三晩行われたが、大正時代からは西方寺の縁日に行うようになった。戦時中は中断されたが、昭和27年から再開され4月に行うようになった。しかし中断中に「来迎和讃」「四方将軍」「極楽念仏」などが消滅し、「賽の川原和讃」だけが残った。平成12年には国の重要無形民俗文化財に指定され[2]、令和4年11月にはユネスコ無形文化遺産に登録された[3]

内容

  • 継承者 – 跡部区民在住の男女が行うが、特別な階層や家筋などはない。
  • 道場 – 3.38mの土台で囲み四十九院の塔婆を方2間に並べ、鳥居を4基建てる(東に発心門、南に修行門、西に菩薩門、北に涅槃門)。中央には太鼓2面を置き、その台に数珠をかける。上部には天蓋を張って鳳凰を乗せる。これらは一遍上人の一行が鎌倉に入ろうとしたところを制止され、片瀬の浜の地蔵堂で踊り念仏を修し踊り屋の上で踊った事に由来する。また幟や幕・花などを飾るが、これは土葬時の「棺台」の姿だと言う。道場の道具には江戸時代の物もあり、西方寺に収納される。
  • 装束 – 踊り装束はの着物や喪服などで、白足袋を履き、南無阿弥陀仏の白襟布を装着し、数珠をかけることもある。太鼓係はさらに白、白手甲鉢巻を用いる。
  • 道具 – 太鼓は平成18年(2006年)に新調した物で、それまでの古い太鼓には正徳3年(1713年)の刻銘があった。鉦は直径16cmの青銅製の平形で跡部村の刻銘があり、鎌倉時代に跡部村金山地籍で鋳造された物と推定される。
  • 人数 – 男女8人のうち2人が「賛しさ」という音頭取りで、ほかの6人が「踊り手」で胸に鉦を吊るす。
  • 流れ –太鼓方の合図で踊り手が引声念仏(ナームーアーミーダーブーツー、あーりーがーたーやー)を唱えながら涅槃門脇の入り口から道場へ入る。平念仏(エー、ナムアミダブツ、ナムアミダブツ)を2回唱え最後に切り念仏(引声念仏を1回唱える)を唱える、「賽の河原和讃」を合唱する。「賽の河原和讃」と平念仏を2回繰り返した後、最後に切り念仏を唱える。ここまでを「往生」と言い、死後極楽に生まれ変わる事を浄土へ願いを立てる。次に鉦を叩きながら飛び跳ねる「踊り」を3回繰り返し、最後に1人ずつ涅槃門脇から退場する。ここまでを「観相」と言い、浄土で生まれ変わって現在に還り苦しむ他人をも救済する。この二段階構成は、法然から証空上人へと受け継がれた「二種廻向」と言う思想に基づく。
  • 団子 – 踊り念仏後に、本尊に供えた三色団子が配られるが、これを食べると知恵がつくとも、風邪をひかないとも言われる[5]。妊娠中の女性は一際大きな団子を食べ、安産を願ったともさせる。2024年現在は市販の物が配られている。

説話

  • 地名 – 跡部の舞台区は、かつて踊り念仏の舞台があった土地だという。また金鋳場区は鉦を鋳た場所で、市庭区は一遍上人が最初に踊った場所だとされる。
  • 紫雲 – 一遍上人は紫雲に感激して踊り始めたと言われるが、跡部区の南方約300mには時宗金台寺があり、山号を「紫雲山」と言う[6]

脚注

  1. ^ 南佐久郡跡部村、野沢町跡部
  2. ^ a b 重要無形民俗文化財 跡部の踊り念仏”. 2024年4月7日閲覧。
  3. ^ a b ユネスコ無形文化遺産「風流踊」 跡部の踊り念仏”. 2024年4月7日閲覧。
  4. ^ 佐久市(1990)、p. 893
  5. ^ 佐久市(1990)、p. 958
  6. ^ 佐久市(1990)、p. 1627

参考文献

  • 佐久市『佐久市志 民俗編 下』佐久市志刊行会、1990年2月20日

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