平戸のジャンガラ (長崎県)
平戸<ひらど>のジャンガラ
区分
重要無形民俗文化財
所在地
長崎県平戸市
保護団体
平戸市自安和楽念仏保存振興会
公開日
8月14日~18日
資料一覧
解説
平戸のジャンガラは戦国時代以前から伝承されていると考えられる念仏踊で,近世には平戸藩の手厚い保護を受け,現在は8月14日から18日にかけて市内各所で奉納されている。この「ジャンガラ」という名称は,鉦と太鼓の音から定着したものといわれている。芸能の構成は集団の中心で踊る中踊(2名),それを取り巻く側打ち(10名前後),及び笛(5名前後)と鉦(2名)の囃子が基本で,他に幟持ちや総代がつく。その芸態は,入り羽の囃子で入場し鉦の合図で中踊が太鼓を打って激しく踊り,その周りで側打ちが太鼓を打ちながら囃すというもので,終わると下り羽の囃子で退場する。
平戸のジャンガラ
名称: | 平戸のジャンガラ |
ふりがな: | ひらどのじゃんがら |
種別1: | 民俗芸能 |
保護団体名: | 平戸市自安和楽念仏保存振興会 |
指定年月日: | 1997.12.15(平成9.12.15) |
都道府県(列記): | 長崎県 |
市区町村(列記): | 平戸市 |
代表都道府県: | 長崎県 |
備考: | |
解説文: | 長崎県平戸市内の九地区に伝承されている念仏踊で、毎年八月十四日から十八日にかけて、祖先供養・五穀豊穣祈願の芸能として各地区ごとに奉納されている。 その起源については定かではないが、志々伎【しじき】神社の神田領民が豊年祈願の踊りとして神社仏閣に奉納したのが始まりと伝えられ、近世初頭の平戸イギリス商館の記録や平戸藩の記録類から、少なくとも戦国時代以前から行われていたと考えられる。またジャンガラの語源については、平戸藩主であった松浦静山の『甲子夜話【かつしやわ】』三編巻ノ一六に、「コノ舞ノ名ヲジヤングワラ踊ト云事ヲ記ス、此ノ斯ク呼ブ事、何カナル故ソト尋ルニ、ジヤント云ハ、鉦ノ音、グワラト云ハ腰鼓ノ声ナリ、(中略)其声グワラグワラト聞コユ、因テ里俗、其聞声ヲ指テ斯ク云フ」とあるように、使用される鉦と太鼓の音から定着した名称であろうといわれている。 近世には、平戸藩の重要な年中行事の一つとして手厚い保護を受け、城下組・下組・大下組の三組が組織され、毎年旧暦七月十八日には平戸城内で藩主の上覧に供した後に、城下各所で奉納されたという。現在では、平戸・中野【なかの】・宝亀【ほうき】・紐差【ひもさし】・根獅子【ねしこ】・津吉【つよし】・中津良【なかつら】・大志々伎【おおしじき】・野子【のこ】の平戸市内九地区で、盆の祖先供養と雨乞いや五穀豊穣祈願の踊りとして、神社・仏閣への奉納をはじめ官公署前や会社の前など市内各所で踊られている。 芸能の構成は各地区ごとに若干の違いがあるが、集団の中心で踊る中踊【なかおどり】(一二名)、それを取り巻く太鼓(側打【そばうち】・廻【まわ】り打【うち】ともいう。一〇名前後)、および苗(五名前後)と鉦(二名)の囃子が基本で、他に幟【のぼり】持ちや総代がつく。それぞれの役割の年齢層は各地区により若干相違するが、中心となる中踊と側打ちは青少年により演じられるのは共通している。服装は浴衣に草履履きで、踊り子は紙花を飾った菅笠を被り、締太鼓【しめだいこ】を胸に吊るす。 その芸態は、入【い】り羽【は】の囃子で退場する。これは近世期の記録類にみられる芸態とほぼ一致しており、近世以来の伝統をよく継承するものであるといえる。なお、踊りの歌として中踊と側打ちが繰り返す「ホーナゴ、ホーミデーテ」という歌詞は俗に「穂長う穂実出て」と五穀豊穣を祈るものと解釈されているが、専門的には念仏の著しく変化した語句と考えられる。 以上のように平戸のジャンガラは、近世以来の芸態をよく伝えるものとして芸能史上とくに貴重であり、また念仏踊の地域的特色を示すものとしても重要である。 |
平戸のジャンガラ
名称: | 平戸のジャンガラ |
ふりがな: | ひらどのじゃんがら |
種別1: | 民俗芸能 |
保護団体名: | 平戸ジャンガラ保存会 |
選択年月日: | 1971.04.21(昭和46.04.21) |
都道府県(列記): | 長崎県 |
市区町村(列記): | 平戸市 |
代表都道府県: | 長崎県 |
備考: | 所在地が同一都道府県内のもの(このデータは種別1から移行しています) |
解説文: | 長崎県平戸市内の九地区に伝承されている念仏踊で、毎年八月十四日から十八日にかけて、祖先供養・五穀豊穣祈願の芸能として各地区ごとに奉納されている。 その起源については定かではないが、志々伎【しじき】神社の神田領民が豊年祈願の踊りとして神社仏閣に奉納したのが始まりと伝えられ、近世初頭の平戸イギリス商館の記録や平戸藩の記録類から、少なくとも戦国時代以前から行われていたと考えられる。またジャンガラの語源については、平戸藩主であった松浦静山の『甲子夜話【かつしやわ】』三編巻ノ一六に、「コノ舞ノ名ヲジヤングワラ踊ト云事ヲ記ス、此ノ斯ク呼ブ事、何カナル故ソト尋ルニ、ジヤント云ハ、鉦ノ音、グワラト云ハ腰鼓ノ声ナリ、(中略)其声グワラグワラト聞コユ、因テ里俗、其聞声ヲ指テ斯ク云フ」とあるように、使用される鉦と太鼓の音から定着した名称であろうといわれている。 近世には、平戸藩の重要な年中行事の一つとして手厚い保護を受け、城下組・下組・大下組の三組が組織され、毎年旧暦七月十八日には平戸城内で藩主の上覧に供した後に、城下各所で奉納されたという。現在では、平戸・中野【なかの】・宝亀【ほうき】・紐差【ひもさし】・根獅子【ねしこ】・津吉【つよし】・中津良【なかつら】・大志々伎【おおしじき】・野子【のこ】の平戸市内九地区で、盆の祖先供養と雨乞いや五穀豊穣祈願の踊りとして、神社・仏閣への奉納をはじめ官公署前や会社の前など市内各所で踊られている。 芸能の構成は各地区ごとに若干の違いがあるが、集団の中心で踊る中踊【なかおどり】(一二名)、それを取り巻く太鼓(側打【そばうち】・廻【まわ】り打【うち】ともいう。一〇名前後)、および苗(五名前後)と鉦(二名)の囃子が基本で、他に幟【のぼり】持ちや総代がつく。それぞれの役割の年齢層は各地区により若干相違するが、中心となる中踊と側打ちは青少年により演じられるのは共通している。服装は浴衣に草履履きで、踊り子は紙花を飾った菅笠を被り、締太鼓【しめだいこ】を胸に吊るす。 その芸態は、入【い】り羽【は】の囃子で入場し、鉦の合図で中踊が太鼓を打ちながら激しく踊り、その周りで側打ちが太鼓を打ちながら囃すというもので、終わると下【さが】り羽【は】の囃子で退場する。これは近世期の記録類にみられる芸態とほぼ一致しており、近世以来の伝統をよく継承するものであるといえる。なお、踊りの歌として中踊と側打ちが繰り返す「ホーナゴ、ホーミデーテ」という歌詞は俗に「穂長う穂実出て」と五穀豊穣を祈るものと解釈されているが、専門的には念仏の著しく変化した語句と考えられる。 以上のように平戸のジャンガラは、近世以来の芸態をよく伝えるものとして芸能史上とくに貴重であり、また念仏踊の地域的特色を示すものとしても重要である。 |
平戸のジャンガラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/30 19:59 UTC 版)
平戸のジャンガラ(ひらどのジャンガラ)は、長崎県平戸市に伝わる念仏踊り。毎年8月14日から8月18日にかけて奉納される。
豊作と雨乞いを祈願する伝統行事にして、先祖供養の盆踊りも兼ねている。ジャンガラは「自安和楽」あるいは「自安神楽」などと表記され、『甲子夜話』(1821年)によれば、その名称は囃子の鉦の音(ジヤン)と太鼓の音(グワラ)に由来するという。踊り手は浴衣姿で菅笠をかぶり、腰に小さな太鼓を付けて踊るが、このとき「ホーナゴ、ホーミデーテ(穂長う、穂も実も出て)」なる囃子言葉が唱えられる。平戸市内の9地区(平戸・中野・宝亀・紐差・根獅子・津吉・中津良・大志々伎・野子)において古くから伝承されており、国の重要無形民俗文化財に指定されている。もともとは島の南部にある志々伎神社で豊年祈願として行われていたものが、全島に広がった[1] [2]。
なお、福島県いわき市にも同名の踊り(じゃんがら念仏踊り)が伝わっている。
脚注
参考文献
- 吉成勇編『日本「祭礼行事」総覧』新人物往来社、1999年。
外部リンク
- 平戸のジャンガラのページへのリンク