毛馬内の盆踊とは? わかりやすく解説

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毛馬内の盆踊


毛馬内の盆踊

名称: 毛馬内の盆踊
ふりがな けまないのぼんおどり
種別1: 民俗芸能
保護団体名: 毛馬内盆踊保存会
選択年月日 1978.12.08(昭和53.12.08)
都道府県(列記): 秋田県
市区町村(列記): 鹿角市十和田毛馬内
代表都道府県 秋田県
備考 所在地同一都道府県内のもの(このデータ種別1から移行しています)
解説文:  秋田県鹿角市毛馬内地区伝承されている盆踊で、毎年八月二十一日から二十三日にかけて、地区内の本町通り舞台に踊られている。
 その起源定かではないが、文化・文政年間一八四-三〇年)に成立した考えられる菅江真澄すがえますみ】の『鄙廼一曲【ひなのひとふし】』に「盆踊大【だい】の坂【さか】ふし」の記事があることから、少なくとも江戸中期からは行われていたことが確認できるその後日中戦争から第二次世界大戦にかけて一時中断するが、戦後復活し、現在に至っている。
 盆踊当日は、通り中央数か所に篝火かがりび】が焚かれ揃い半纏はんてん】姿の地区内の若者たちによる「呼び太鼓」の音により、踊り子篝火囲んで内向き細長い輪を作る踊りは、祖先供養の意味をもつといわれる大の踊り」と、より娯楽的な甚句【じんく】踊り」の二つがあり、最初に太鼓と笛の囃子が付く「大の踊り」が、続いて歌のみによる「甚句踊り」が踊られるのが恒例である。なお、現在はこれらの後に、「鹿角じょんがら」と称してじょんがら節余興として踊りその日盆踊締めくくっている。おそらく、祖先供養踊りである「大の踊り」に、より娯楽的な甚句踊り」が加わり現在の構成になったものと考えられる
 地元で仏の手向けのための踊りであると言い伝えられている「大の踊り」には、かつて歌もあったが、近代になってしだいに歌われなくなり第二次世界大戦以後太鼓と笛のみで踊るという現在の形式になった直径約一メートル長さ約二メートルに及ぶ大太鼓先頭にして、子どもたち踊り続きその後次々と大人踊り手が輪に加わり静かに踊られる。「甚句踊り」は、七・七・七・五の詞章鹿角甚句による踊りで、豊作祈り祝うもの、郷土風物称えるものなど多数詞章がある。歌い手かつては踊りの輪のところどころ入って歌ったが、今では通り中央二か所の定められた場所で歌うようになっている二つ踊りは、いずれも篝火囲んで踊る輪踊で、つねに輪の内側を向いてゆったりとした振りで踊るのが特徴である。
 また踊り手衣装には決まりがあり、男性は黒紋付の裾をはしょり、その下には水色蹴出【けだ】しを付け胴〆【どうじ】めを締めて飾りとしてしごきを結び、白足袋雪駄あるいは下駄を履く女性紋付江戸褄【づま】・訪問着などの裾をはしょり、その下に鴇色ときいろ】の蹴出しをつけ、帯を太鼓結びにし、帯の下腰にしごきを結び、白足袋草履を履く。なお男女とも、豆絞りの手拭いで額を隠すようにして頭を覆いこめかみから前に折り返して口元隠し顎の下で結ぶ、独特の頬被りをする。
 以上のように毛馬内の盆踊は、祖先供養盆踊娯楽的要素踊り加わって今日の姿に至るまでの変遷過程を示すものとして貴重であり、また地域的特色顕著である。

毛馬内の盆踊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/10 06:30 UTC 版)

毛馬内盆踊りの風景

毛馬内の盆踊(けまないのぼんおどり)は、秋田県鹿角市十和田毛馬内で行われる重要無形民俗文化財に指定される盆踊りである。毎年8月21日から23日まで行われる。2022年11月30日ユネスコ無形文化遺産に指定された[1]

西馬音内の盆踊一日市の盆踊と合わせて、秋田県の三大盆踊りに数えられる。

概要

以前は毛馬内盆踊りといわれていたが、平成10年(1998年12月16日に国の重要無形民俗文化財に指定された頃より毛馬内の盆踊-北の盆-と称している。

歴史と伝承

毛馬内の盆踊は、情緒豊かで優雅な盆踊り。町内路上に篝火を焚き、その周りに細長い輪となり踊られる。呼び太鼓(高屋、大拍子、七拍子の3曲)の後、笛の囃子の大の坂踊り、唄のみの甚句踊りの順で踊る。大の坂踊りは明暦3年(1657年)に桜庭光秀が毛馬内に移封した頃すでに継承されていたとする説、京都の念仏踊りの流れを汲むという説があるが定かではない。

この地方は、南部藩時代に軍馬であった南部馬の産地として知られ馬の売買が厳しい管理体制下があり、馬皮製のこの地方特有の大太鼓が作られ、張りのある音色が聞ける。踊り手の衣装は、男は黒紋付きに水色の蹴出し、女は襦袢に鴇色の蹴出し、近年は江戸褄、訪問着、小紋など晴れ着を着て、顔は豆絞りの手拭いで頬被りをするなど、地域的特色に富んだ伝統的な盆踊りである。

昭和初期までは唄が付随していたが唄い手が途絶えた。甚句踊りの起源は、永禄8年(1565年)から永禄11年(1568年)にかけて、安東愛季が鹿角に攻め入った際、南部信直が三戸から出陣し愛季勢を領外に駆逐した。その折り、毛馬内で将卒の労をねぎらったものといわれている。

昭和後期までは上町、中町、下町、五軒町、萱町の5町で順番に5日間行われていた。一説に、衣装は藩政時代、男性も女性も、女性物の着物の晴れ着などを着て踊っていたという。

アクセス

会場は秋田県道313号雪沢十和田毛馬内線を通行止めにして行われる。

脚注

  1. ^ 風流踊、きょうユネスコ無形文化遺産登録決定へ 西馬音内・毛馬内含む41件”. 秋田魁新報 (2022年11月30日). 2022年12月13日閲覧。

外部リンク

座標: 北緯40度16分17.4秒 東経140度46分0秒 / 北緯40.271500度 東経140.76667度 / 40.271500; 140.76667




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