葬送曲・追想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 05:13 UTC 版)
1941年(昭和16年)、須賀田はJOAKから戦死者葬送のための音楽の作曲を委嘱され、太平洋戦争開戦直前の昭和16年(1941年)11月1日に「葬送曲・追想」が作曲された。「葬送曲・追想」には、それまでの須賀田の音楽にはない内的心情の吐露が見られる。昭和18年(1943年)6月7日、山本五十六大将の国葬にあたり、この「葬送曲・追想」が演奏された。その後一度も再演の機会を得ることなく、今日に至っている。多くの作品が評価された結果、須賀田は1937年(昭和12年)より帝国高等音楽学校作曲科嘱託として1944年(昭和19年)同校が廃校になるまで勤務、横浜合唱団の指揮者としても活躍した。しかし戦局の悪化と共に1944年(昭和19年)、父親の故郷である栃木県田沼町への疎開し、同地で終戦を迎えた。
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