鎌倉の御家人
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奥州藤原氏滅亡後の9月、頼朝は論功行賞を発表し、清重は勲功抜群として胆沢郡、磐井郡、牡鹿郡など数か所に所領を賜り、更に奥州総奉行に任じられ、陸奥国の御家人統率を任された。平泉保内に検非違所という政庁を築くことも許されるなど、事実上の奥州の国主としての政治権力を頼朝から委任される形で与えられた。奥州の仕置きを行っている清重に対して、頼朝は病床にあった清重の老母の様子を使者を送って伝えてやるほど気を遣っていた。江戸時代の多くの地誌では、陸奥国に入った清重は石巻城を築いて葛西氏代々の居城にしたとするが、清重の奥州滞在は短く、本拠はなお関東にあったと考えられるので、疑わしい。 文治6年(1190年)正月に起きた奥州藤原氏遺臣による大河兼任の乱でも千葉胤正とともに平定に尽し、「殊なる勇士なり」と讃えられた。反乱鎮定による安定をみて陸奥国を離れ、以後は幕府の重臣として鎌倉に詰めた。しかし、この後も引き続き奥州総奉行として、陸奥国留守職・奥州総奉行の伊沢家景とともに同国の行政に携わった。 建久元年(1190年)に頼朝が上洛した際、右近衛大将拝賀の布衣侍7人の内に選ばれて参院の供奉をした。さらに、これまでの勲功として頼朝に御家人10人の成功推挙が与えられた時、その1人に入り右兵衛尉に任ぜられる。 頼朝没後は北条氏に接近し、元久2年(1205年)の畠山重忠の乱で北条方として参戦し、武功を挙げた。建暦3年(1213年)の和田合戦でも北条方として武功を挙げている。 清重は北条氏からの信任も特に厚い宿老として鎌倉幕府の初期政治に参加した。壱岐守に任じられ、出家して壱岐入道定蓮と呼ばれた。 清重の没年には嘉禎3年(1238年)9月14日、暦仁元年(1237年)12月5日など諸説があり、詳しくは分かっていない。
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鎌倉の御家人
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10月20日の富士川の戦いに参加し、合戦は戦わずして平家が敗走して終わった。合戦後の夜に、一人の青年が黄瀬川の陣に現れ頼朝との面会を求めたが、その場にいた義実は怪しんで取り次ごうとしなかった。騒ぎを聞きつけた頼朝が面会すると、その青年は弟の九郎義経であった。兄弟の対面に義実をはじめとする諸将は涙した。有名な黄瀬川の対面である。 治承5年(1181年)6月、三浦義澄の館へ頼朝が渡り酒宴が催された。その席で、義実は頼朝着用の水干を所望した。頼朝は快く許し、義実は喜んでその場で着用した。すると上総広常がこれを妬み「このような美服は、この広常こそが拝領すべきものだろうに、義実のような老い耄れが賞せられるなどとんでもないことだ」と言い放った。この暴言に義実は激怒し、つかみ合いの喧嘩になりかかった。頼朝は言葉もなく黙ってしまうが、三浦一族の佐原義連が義実に「このような場で喧嘩とは老狂のいたすところか」と叱りつけ、広常には「あなたの言うことは道理に合わない、所存あれば後日に承ろう」と仲裁に入りことを収めた。 頼朝政権の中で飛びぬけて多くの兵力を有する広常には驕慢な振る舞いが多く、京を制して武家政権を樹立するよりも関東割拠を主張するなど危険な存在であったため、この3年後の寿永2年(1184年)に頼朝の命令で梶原景時に暗殺されている。 義実の元には、石橋山の戦いで嫡男の佐奈田義忠を討ち取った長尾定景が預けられていた。慈悲深い義実は息子の仇を討って首を刎ねることなく囚人として捕らえるに留めおり、定景は日々法華経を読経していた。ある日、義実は頼朝に「読誦を聞くうちに怨念は晴れました。もしも彼を斬れば、冥土の義忠が難を蒙りましょうから」と言って定景の赦免を願い出て、治承5年(1181年)7月に頼朝はこれを許した。 頼朝の挙兵にいちはやく参じて忠節を尽した義実は御家人に列して、諸行事に参列している。既に70歳を超える老齢なためか、その後の平家追討の戦いには名が見えず従軍はしていないと思われる。 文治4年(1188年)8月、義実は相模国波多野本庄北方(神奈川県秦野市)の所領を巡って波多野義景と訴訟になり、義実は敗訴し、罰として鶴岡八幡宮と勝長寿院での100日間の宿直を命じられた。結局、この罪は翌9月に義実の郎党が箱根山で山賊の字王藤次を捕らえたことで許されている。 文治5年(1189年)の奥州藤原氏討伐(奥州合戦)に先次郎惟平とともに従軍。
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鎌倉の御家人
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元暦2年(1185年)3月、比企能員の手勢として平家追討に加わっていたとみられ、恩賞として元暦2年(1185年)6月に頼朝より伊勢国波出御厨、須可荘地頭職に任命される。「島津家文書」では、この時の名は「左兵衛尉惟宗忠久」と記されている。文治元年(1185年)8月17日付で、源頼朝の推挙により摂関家領島津荘下司職に任命される。これが忠久と南九州との関係の始まりとなる。その後まもなく島津荘の惣地頭に任じられている。 また、同じ年に信濃国塩田荘地頭職にも任命される。文治5年(1189年)の奥州合戦に頼朝配下の御家人として参陣し、建久元年(1190年)の頼朝の上洛の際にも行列に供奉している。建久8年(1197年)12月、大隅国・薩摩国の守護に任じられ、この後まもなく、日向国守護職を補任される。建久9年(1198年)、左衛門尉に任官される。諸国で守護や郡地頭職に任命されているが、これ以降、忠久は最も広大な島津荘を本貫にしようと、その地名から、島津(嶋津)左衛門尉と称する。 島津家家臣により書かれた山田聖栄自記(15世紀後半)及び、島津国史(江戸後期成立)によれば、地頭となった忠久は、文治2年(1186年)に薩摩国山門院(鹿児島県出水市の旧野田町を中心に旧高尾野町、出水の針原、六月田の一部、荘、江内、阿久根の脇本)の木牟礼城に入り、その後、日向国島津院(宮崎県都城市)の堀之内御所に移ったと伝えられている。この他に、三国名勝図会(江戸後期成立)では、建久7年(1196年)に、山門院から島津院の祝吉御所に入り、その後、堀之内御所に移ったとする伝承もある。しかし、史実としては忠久が山門院、島津院いずれにも移住したとは認められず、伝承にすぎないという指摘がされている。 出水市教育委員会による木牟礼城址の解説板では、文治2年(1186年)島津忠久が薩摩・大隅・日向三国の地頭職に任ぜられた後、家臣の本田貞親を任地に下向させて、三国の情勢を探らせた事が記されている。山門院の豪族を平らげて建久7年(1196年)貞親は山門院の木牟礼に城を築いて島津市三州支配の基礎を作ったという。 すなわち、忠久自身が木牟礼城に定住したことはないが、木牟礼城は薩摩国の守護所であり、ここに本田氏ら守護島津氏の家臣が常駐し守護勢力の拠点となり、5代貞久まで至るのである。 なお、木牟礼城址東南200メートルの付近は野田町の屋地という地名であるが、当時城郭内になっていたと伝えられ、城址内に竹林城址と伝えられている区画があり、本田貞親の居城であったという。 島津氏は、初代島津忠久が鎌倉で活動してそこで生涯を終え、二代目島津忠時も同様に鎌倉で没する。三代目島津久経が元寇を機に下向して以来、南九州への在地化が本格化し、四代目島津忠宗は島津氏として初めて薩摩の地で没した。島津家当主で南九州に土着したことが確認できるのは五代目島津貞久以降である。碇山城(薩摩川内市)に貞久の守護所が置かれていたという。
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鎌倉の御家人
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平家滅亡後、頼朝と弟の源義経との間で対立が深まっており、そうした中の文治元年(1185年)10月24日、頼朝は父・義朝の供養を行い、盛綱もそれに列している。文治2年(1186年)10月24日、甘縄神明神社へ参拝した頼朝に随行する。文治4年(1187年)7月10日、源頼家が初めて鎧を着る儀式に加わる。建久元年(1190年)8月15日、頼朝の鶴岡八幡宮参拝に随行する。 同年7月20日、頼朝の邸宅での双六の最中に、盛綱の15歳の息子・信実が工藤祐経の額を石で打ち、流血へと至る事件が起きる。信実はその場を逃れ、盛綱はその後を追ったが、翌日に頼朝より信実を捕らえよと命じられる。しかし盛綱は、信実は既に出家を遂げ逃亡し、親子の縁を切ったと述べる。頼朝が盛綱に対し、祐経に対する謝罪を命じると、既に親子の縁を切った事を理由に謝罪を拒否した。 9月から11月、頼朝に従い上洛し、院への参上や石清水八幡宮への参拝などに随行する。建久2年(1191年)10月1日、奥州と越後国より牛15頭を頼朝に贈る。建久3年(1192年)11月15日、永福寺への参拝に随行する。建久4年(1193年)9月7日には後白河法皇の崩御後に荒廃していた御所の宿直を命じられる。建久5年(1194年)2月2日、北条泰時の元服式に、11月21日には三嶋大社の神事による笠懸に加わる。 建久6年(1195年)4月10日、東大寺供養の為に上洛した頼朝の参内に従い、この時には兵衛尉に任じられている。5月20日の四天王寺参拝にも随行している。 頼朝が没した後の建久10年(1199年)3月22日には、出家しており西念と称する。建仁元年(1201年)4月3日、上野国磯部郷に在り、城資盛・板額御前の反乱の制圧を命じられる。命令は4月5日に西念の下に届き、越後国鳥坂城に構える城資盛を激戦の末に破った(建仁の乱)。牧氏事件では、元久2年(1205年)閏7月26日京に在った平賀朝雅を討つ軍に加わる。 没年月日は不詳であるが、倉敷市に盛綱のものと伝わる墓が残っている。
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