鎌倉の御家人とは? わかりやすく解説

鎌倉の御家人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 09:26 UTC 版)

葛西清重」の記事における「鎌倉の御家人」の解説

奥州藤原氏滅亡後9月頼朝論功行賞発表し清重勲功抜群として胆沢郡磐井郡牡鹿郡など数か所に所領賜り、更に奥州総奉行任じられ陸奥国御家人統率任された。平泉保内検非違所という政庁を築くことも許されるなど、事実上奥州国主としての政治権力頼朝から委任される形で与えられた。奥州仕置き行っている清重に対して頼朝病床にあった清重老母様子使者送って伝えてやるほど気を遣っていた。江戸時代多く地誌では、陸奥国入った清重石巻城築いて葛西氏代々居城にしたとするが、清重奥州滞在短く本拠はなお関にあった考えられるので、疑わしい文治6年1190年正月起きた奥州藤原氏遺臣による大河兼任の乱でも千葉胤正とともに平定尽し、「殊な勇士なり」と讃えられた。反乱鎮定による安定をみて陸奥国離れ以後幕府重臣として鎌倉詰めた。しかし、この後引き続き奥州総奉行として、陸奥国留守職奥州総奉行伊沢家景とともに同国行政携わった建久元年1190年)に頼朝上洛した際、右近衛大将拝賀布衣侍7人の内に選ばれ参院供奉をした。さらに、これまでの勲功として頼朝御家人10人の成功推挙与えられた時、その1人に入り右兵衛尉に任ぜられる。 頼朝没後北条氏接近し元久2年1205年)の畠山重忠の乱北条方として参戦し武功挙げた建暦3年1213年)の和田合戦でも北条方として武功挙げている。 清重北条氏からの信任も特に厚い宿老として鎌倉幕府初期政治に参加した。壱岐守任じられ出家して壱岐入道呼ばれた清重没年には嘉禎3年1238年9月14日暦仁元年1237年12月5日など諸説があり、詳しく分かっていない。

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鎌倉の御家人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 01:23 UTC 版)

岡崎義実」の記事における「鎌倉の御家人」の解説

10月20日富士川の戦い参加し合戦戦わずして平家敗走し終わった合戦後夜に一人青年黄瀬川の陣に現れ頼朝との面会求めたが、その場にいた義実は怪しんで取り次ごうとしなかった。騒ぎ聞きつけた頼朝面会すると、その青年は弟の九郎義経であった兄弟対面に義実をはじめとする諸将涙した有名な黄瀬川の対面である。 治承5年1181年6月三浦義澄の館へ頼朝渡り酒宴催された。その席で、義実は頼朝着用水干所望した。頼朝快く許し、義実は喜んでその場着用した。すると上総広常がこれを妬みこのような美服は、この広常こそが拝領すべきものだろうに、義実のような老い耄れが賞せられるなどとんでもないことだ」と言い放った。この暴言に義実は激怒しつかみ合い喧嘩になりかかった頼朝言葉もなく黙ってしまうが、三浦一族佐原義連が義実に「このような場で喧嘩とは老狂のいたすところか」と叱りつけ、広常には「あなたの言うことは道理合わない所存あれば後日に承ろう」と仲裁入りことを収めた頼朝政権の中で飛びぬけて多く兵力有する広常には驕慢振る舞い多く、京を制して武家政権樹立するよりも関東割拠主張するなど危険な存在であったため、この3年後寿永2年1184年)に頼朝命令梶原景時暗殺されている。 義実の元には、石橋山の戦い嫡男佐奈田義忠討ち取った長尾定景預けられていた。慈悲深い義実は息子の仇を討って首を刎ねることなく囚人として捕らえるに留めおり、定景は日々法華経読経していた。ある日、義実は頼朝に「読誦聞くうちに怨念晴れました。もしも彼を斬れば、冥土義忠が難を蒙りましょうから」と言って定景の赦免願い出て治承5年1181年7月頼朝はこれを許した頼朝の挙兵いちはやく参じ忠節尽した義実は御家人列して諸行事に参列している。既に70歳超える老齢なためか、その後平家追討戦いには名が見えず従軍はしていない思われる文治4年1188年8月、義実は相模国波多野本庄北方神奈川県秦野市)の所領巡って波多野義景訴訟になり、義実は敗訴し、罰として鶴岡八幡宮勝長寿院での100日間宿直命じられた。結局、この罪は翌9月に義実の郎党箱根山山賊の字王藤次捕らえたことで許されている。 文治5年1189年)の奥州藤原氏討伐奥州合戦)に先次郎惟平とともに従軍

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鎌倉の御家人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 16:01 UTC 版)

島津忠久」の記事における「鎌倉の御家人」の解説

元暦2年1185年3月比企能員の手勢として平家追討加わっていたとみられ、恩賞として元暦2年1185年6月頼朝より伊勢国出御厨、須可荘地頭職任命される。「島津家文書」では、この時の名は「左兵衛尉惟宗忠久」と記されている。文治元年1185年8月17日付で、源頼朝推挙により摂関家島津荘下司職任命される。これが忠久と南九州との関係の始まりとなる。その後まもなく島津荘惣地頭任じられている。 また、同じ年に信濃国塩田荘地頭職にも任命される文治5年1189年)の奥州合戦頼朝配下御家人として陣し建久元年1190年)の頼朝の上洛の際にも行列供奉している。建久8年1197年12月大隅国薩摩国守護任じられこの後まもなく、日向国守護職補任される。建久9年1198年)、左衛門尉任官される。諸国守護郡地頭職に任命されているが、これ以降、忠久は最も広大な島津荘本貫にしようと、その地名から、島津嶋津左衛門尉称する島津家家臣により書かれ山田聖自記15世紀後半)及び、島津国史(江戸後期成立によれば地頭となった忠久は、文治2年1186年)に薩摩国山門院(鹿児島県出水市の旧野田町中心に高尾野町出水針原六月田の一部、荘、江内、阿久根脇本)の木牟礼城に入りその後日向国島津院(宮崎県都城市)の堀之内御所移った伝えられている。この他に、三国名勝図会江戸後期成立)では、建久7年1196年)に、山門院から島津院の祝吉御所入りその後堀之内御所移ったとする伝承もある。しかし、史実としては忠久が山門院、島津院いずれにも移住したとは認められず、伝承にすぎないという指摘がされている。 出水市教育委員会による木牟礼城址解説板では、文治2年1186年島津忠久薩摩大隅日向三国地頭職に任ぜられた後、家臣本田貞親を任地下向させて、三国情勢を探らせた事が記されている。山門院の豪族平らげて建久7年1196年)貞親は山門院の木牟礼に城を築いて島津三州支配基礎作ったという。 すなわち、忠久自身が木牟礼城に定住したことはないが、木牟礼城は薩摩国守護所であり、ここに本田氏ら守護島津氏家臣常駐し守護勢力拠点となり、5代貞久まで至るのである。 なお、木牟礼城址東南200メートル付近野田町屋地という地名であるが、当時城郭になっていたと伝えられ城址内に竹林城址伝えられている区画があり、本田貞親の居城であったという。 島津氏は、初代島津忠久鎌倉活動してそこで生涯終え二代目島津忠時同様に鎌倉没する三代目島津久経元寇機に下向して以来南九州への在地化が本格化し、四代目島津忠宗島津氏として初め薩摩の地で没した島津家当主南九州土着したことが確認できるのは五代目島津貞久以降である。碇山城(薩摩川内市)に貞久守護所置かれていたという。

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鎌倉の御家人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 02:37 UTC 版)

佐々木盛綱」の記事における「鎌倉の御家人」の解説

平家滅亡後頼朝と弟の源義経との間で対立深まっており、そうした中の文治元年1185年10月24日頼朝は父・義朝供養行い盛綱もそれに列している。文治2年1186年10月24日甘縄神明神社参拝した頼朝随行する文治4年1187年7月10日源頼家初めて鎧を着る儀式に加わる。建久元年1190年8月15日頼朝鶴岡八幡宮参拝随行する同年7月20日頼朝邸宅での双六最中に、盛綱15歳息子信実工藤祐経の額を石で打ち流血へと至る事件起きる。信実その場逃れ盛綱その後追ったが、翌日頼朝より信実捕らえよ命じられる。しかし盛綱は、信実は既に出家遂げ逃亡し親子の縁を切った述べる。頼朝盛綱対し、祐経に対す謝罪命じると、既に親子の縁を切った事を理由謝罪拒否した9月から11月頼朝従い上洛し、院への参上石清水八幡宮への参拝などに随行する建久2年1191年10月1日奥州越後国り牛15頭を頼朝に贈る。建久3年1192年11月15日永福寺への参拝随行する建久4年1193年9月7日には後白河法皇崩御後荒廃していた御所宿直命じられる建久5年1194年2月2日北条泰時元服式に、11月21日には三嶋大社神事による笠懸に加わる。 建久6年1195年4月10日東大寺供養為に上洛した頼朝参内従い、この時には兵衛尉に任じられている。5月20日四天王寺参拝にも随行している。 頼朝没した後の建久10年1199年3月22日には、出家しており西念称する建仁元年1201年4月3日上野国磯部郷に在り城資盛板額御前反乱制圧命じられる命令4月5日西念の下に届き越後国鳥坂城構え城資盛激戦の末に破った建仁の乱)。牧氏事件では、元久2年1205年)閏7月26日京に在った平賀朝雅を討つ軍に加わる。 没年月日不詳であるが、倉敷市盛綱のものと伝わる墓が残っている。

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