壇ノ浦へとは? わかりやすく解説

壇ノ浦へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 05:08 UTC 版)

志度合戦」の記事における「壇ノ浦へ」の解説

『平家物語』『吾妻鏡』2月21日(旧暦)条)・『玉葉』(2月21日27日旧暦)条)によると、住吉大社神主津守長盛が上洛し、1185年3月19日文治元年2月16日)に宝殿から鏑矢が西をさして飛んでいったことが朝廷報告され義経渡海成功はその神威顕れであると書いている。これは義経阿波渡海同行していた渡辺党住吉社警固務めていたことから、いち早く義経渡海成功情報得た住吉社が、朝廷渡海成功絡め神威掲示報告をしたと見られる『平家物語』鶏合壇浦合戦」では、熊野水軍率い湛増源平いずれに味方に着くか赤と白の使って鶏合せで占う様子描かれている。湛増源氏方への荷担それ以前のことだが、源平争乱当初から見られ熊野勢力動向複雑さから生まれた逸話思われる1185年4月15日文治元年3月14日)、鎌倉頼朝から九州押さえている大手軍の範頼宛に、平氏追討には慎重を期して三種の神器無事に取り返すように書状送られた。 同年4月22日文治元年3月21日)、義経壇ノ浦下関市壇ノ浦一帯)の平家攻めるため出陣しようとしたが、大雨のため延期となる。そこに周防国在庁官人船所(船の事を司る国衙役所であった五郎正利数十艘の船を献上し義経五郎鎌倉の御家人にするという文書与えた同年4月23日文治元年3月22日)、数十艘の兵船徴発した義経壇ノ浦目指し船出した周防国守備当たっていた三浦義澄義経船出聞いて大島の津(山口県周南市南部)で義経軍合流し、すでに門司関を見ていることから義経より案内人として先登命じられる義経軍軍船840余艘で平家の陣から30余町の所にある壇ノ浦奥津下関市大字豊浦町の沖にある2島満珠島・干珠島辺り到着した平家はこれを知って彦島出発し阿波成良、山鹿秀遠らの勢力を含む軍船500余艘を率いて赤間関通過して24日夕刻頃、田之浦福岡県北九州市門司区)に集結した軍船の数は諸説有り)。 同年4月25日文治3月24日)、治承・寿永の乱最後の決戦である壇ノ浦の戦い迎えることになる。

※この「壇ノ浦へ」の解説は、「志度合戦」の解説の一部です。
「壇ノ浦へ」を含む「志度合戦」の記事については、「志度合戦」の概要を参照ください。

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