義経の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/03 00:17 UTC 版)
2月10日には範頼軍の苦戦と兵糧の欠乏を知った義経が、治安の不安から引き留める後白河院や貴族たちを振り切って平家本陣である屋島へ向けて出陣した。『平家物語』「大嘗会之沙汰」では、山陽道で兵糧米の欠乏で苦心していた頃の範頼が戦いもせず遊女と戯れ月日を過ごしていたとし、屋島・壇ノ浦へと義経の華々しい活躍が描かれているが、義経の屋島の戦いでの奇襲の成功は、地元の武士団の協力を得て瀬戸内海水運の一つである豊後を押さえ、知盛軍を彦島に釘付けにして屋島との連携を断ち切った範頼軍の存在があってのものであった。 3月12日に兵糧米を積んだ船が伊豆を出発し、兵糧問題はようやく解決した。3月14日に頼朝から範頼宛に平氏追討には慎重を期して、三種の神器を無事に取り返すように書状が送られている。義経は屋島から平宗盛らを追いやって彦島へ向かった。範頼は九州の武士団の組織化にあたり、長門彦島の平氏の九州への逃走を阻む役割を担う形になり、3月24日、治承・寿永の乱の最後の決戦である壇ノ浦の戦いに望むことになる。
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