義経との対立とは? わかりやすく解説

義経との対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:52 UTC 版)

源頼朝」の記事における「義経との対立」の解説

末弟源義経逐う至った経緯は、古くから多く人々興味呼び物語作られ研究成されている。 『吾妻鏡』では、まず養和元年1181年7月頼朝義経に対して鶴岡八幡宮大工への褒美である馬を授け引馬役を命じたところ、義経が不満を示したために頼朝激怒したという(養和元年7月20日条)。続いて元暦元年1184年8月6日、京に在った義経頼朝の内挙を得ず任官し憤った頼朝義経平氏追討軍から除いたことになっている元暦元年8月17日条)。しかし、頼朝8月3日義経伊勢平信兼追討命じ8月3日条)、26日義経追討使官符を賜っている(文治5年4月30日条)など、この記述『吾妻鏡』の他の記事齟齬がある。任官以前義経西海遠征から外れていたとも考えられ頼朝義経に対して何の処罰下していないことから、この時点での頼朝義経対立疑問視する見解もある。一方で無断任官知った8月17日以前頼朝何らかの命を義経下しているのは当然であり、追討使官符を賜っているのも、朝廷頼朝に諮らず義経検非違使任じたのであるから、頼朝に諮らず平氏追討官符下しても、不思議は無いとも考えられる義経恐れたとの説もある。戦い敗れることも多かった頼朝対し義経平氏追討連戦連勝遂げたので、頼朝義経の軍才を恐れるに至ったとする。義経藤原泰衡討たれ直後奥州合戦始めたことは、この説を裏付けるものとして用いられる平氏滅亡後鎌倉政権は、重大な時期来ていた。内乱が収まると平氏追討名目にした軍事的支配権行使出来なくなる。頼朝それまで軍事力持って獲得してきたものを、朝廷との政治交渉によって、平時の状態でも確保出来補強しなければならない困難な状況直面していた。そうした時期であるために、いかに肉親であり功績のある者でも、自分反抗する者は許しておくことは出来ない義経背後には、武家政権確立のための対抗勢力ある朝廷や奥州藤原氏があったのである都落ちした義経を匿ったことで鎌倉召還され興福寺の僧・聖弘は、義経庇護したことを詰問する頼朝対し、「今関東が安泰であるのは義経武功よるものである。讒言聞き入れ恩賞土地取り上げれば、人として逆心起こすのも当然ではないか義経呼び戻し兄弟水魚の交わりをされよ。自分義経のみを庇って言うのではなく天下の無事を願っての事である。」と悪びれず直言した頼朝はその言葉感じ入り聖弘勝長寿院供僧職に任じたことから、義経憎みきっていたわけではないことが伺える。頼朝政治家であり、義経軍人であった。その相違が、平氏滅亡後露呈することになったのである。 もっとも、義経限らず、範頼をはじめとする源氏一族(「門葉」)に対して頼朝清和源氏棟梁として優位性を示す一方で、彼らを将軍家藩屏として優遇する方針取り続けており、結果的にその方針が失敗したとしてもそれをもって義経一族冷遇した、重用しなかったとするのは一方的な見方であるとする批判もある。

※この「義経との対立」の解説は、「源頼朝」の解説の一部です。
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