義経との対立
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末弟・源義経を逐うに至った経緯は、古くから多くの人々の興味を呼び、物語が作られ、研究が成されている。 『吾妻鏡』では、まず養和元年(1181年)7月に頼朝が義経に対して鶴岡八幡宮の大工への褒美である馬を授ける引馬役を命じたところ、義経が不満を示したために頼朝が激怒したという(養和元年7月20日条)。続いて元暦元年(1184年)8月6日、京に在った義経は頼朝の内挙を得ずに任官し、憤った頼朝は義経を平氏追討軍から除いたことになっている(元暦元年8月17日条)。しかし、頼朝は8月3日に義経に伊勢の平信兼追討を命じ(8月3日条)、26日に義経は追討使の官符を賜っている(文治5年閏4月30日条)など、この記述は『吾妻鏡』の他の記事と齟齬がある。任官以前に義経は西海遠征から外れていたとも考えられ、頼朝が義経に対して何の処罰も下していないことから、この時点での頼朝と義経の対立を疑問視する見解もある。一方で、無断任官を知った8月17日以前に頼朝が何らかの命を義経に下しているのは当然であり、追討使の官符を賜っているのも、朝廷は頼朝に諮らず義経を検非違使に任じたのであるから、頼朝に諮らず平氏追討の官符を下しても、不思議は無いとも考えられる。 義経を恐れたとの説もある。戦いに敗れることも多かった頼朝に対し、義経は平氏追討で連戦連勝を遂げたので、頼朝は義経の軍才を恐れるに至ったとする。義経が藤原泰衡に討たれた直後に奥州合戦を始めたことは、この説を裏付けるものとして用いられる。 平氏滅亡後の鎌倉政権は、重大な時期に来ていた。内乱が収まると平氏追討を名目にした軍事的支配権の行使が出来なくなる。頼朝はそれまで軍事力を持って獲得してきたものを、朝廷との政治交渉によって、平時の状態でも確保出来、補強しなければならない困難な状況に直面していた。そうした時期であるために、いかに肉親であり功績のある者でも、自分に反抗する者は許しておくことは出来ない。義経の背後には、武家政権確立のための対抗勢力である朝廷や奥州藤原氏があったのである。 都落ちした義経を匿ったことで鎌倉へ召還された興福寺の僧・聖弘は、義経を庇護したことを詰問する頼朝に対し、「今関東が安泰であるのは義経の武功によるものである。讒言を聞き入れ恩賞の土地を取り上げれば、人として逆心を起こすのも当然ではないか。義経を呼び戻し、兄弟で水魚の交わりをされよ。自分は義経のみを庇って言うのではなく、天下の無事を願っての事である。」と悪びれず直言した。頼朝はその言葉に感じ入り、聖弘を勝長寿院の供僧職に任じたことから、義経を憎みきっていたわけではないことが伺える。頼朝は政治家であり、義経は軍人であった。その相違が、平氏滅亡後に露呈することになったのである。 もっとも、義経に限らず、範頼をはじめとする源氏一族(「門葉」)に対して、頼朝は清和源氏の棟梁としての優位性を示す一方で、彼らを将軍家の藩屏として優遇する方針を取り続けており、結果的にその方針が失敗したとしてもそれをもって義経ら一族を冷遇した、重用しなかったとするのは一方的な見方であるとする批判もある。
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