義経による物語
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/23 17:17 UTC 版)
義経の亡霊(後シテ)は、屋島の戦いの様子を回想し、物語る。義経が、波打際に馬を進めて戦ううちに弓を取り落としてしまい、弓が潮に流されたので、敵船近くまで馬で追いかけて弓を取り戻したという「弓流し」の場面である。義経は、危険を冒してまで弓を取りに行ったのは、弓を惜しんだのではなく、弓を敵に取られて名誉を失うのを恐れたからだと述べる。 シテ「その時何(なに)とかしたりけん、判官弓を取り落し、波に揺られて流れしに地謡〽そのをりしもは引く潮にて、はるかに遠く流れ行くをシテ「敵に弓を取られじと、駒を波間に泳がせて、敵船(てきせん)近くなりしほどに地謡〽敵(かたき)はこれを見しよりも、船を寄せ熊手(くまで)に懸けて、すでに危(あよお)く見えたまひしにシテ「されども熊手を切り払ひ、つひに弓を取り返し、元の渚にうち上がれば地謡〽その時兼房申すやう、口惜(くちお)しのおん振舞ひやな、渡辺にて景時が申ししもこれにてこそ候へ、たとひ千金を延べたるおん弓なりとも、おん命には代へたまうべきかと、涙を流し申しければ、判官これを聞こし召し、いやとよ弓を惜しむにあらず、義経源平に、弓矢を取つて私(わたくし)なし、しかれども、佳名(かめい)はいまだ半ばならず、さればこの弓を敵に取られ義経は、小兵(こひょう)なりと言はれんは、無念の次第なるべし、よしそれゆゑに討たれんは、力なし義経が、運の極めと思ふべし、さらずは敵に渡さじとて、波に引かるる弓取りの、名は末代にあらずやと、語りたまへば兼房、さてそのほかの人までも、みな感涙を流しけり [義経]その時、どうしたことか、判官(義経)は弓を取り落とし、弓が波に揺られて流れていった。――折しも、引き潮であったので、弓ははるか遠くに流れて行ったのを[義経]義経は敵に弓を取られまいと、馬を波間に泳がせて、敵船の近くまで近付いたところ、――敵はこれを見るや、義経に船を近付け、熊手で引っ掛けて、もはや義経の身は危ういようにお見えになったが[義経]しかし義経は熊手を切り払い、ついに弓を取り返し、元の渚に上がった。――その時、義経の臣兼房が、「残念なお振舞いです。摂津国渡辺で梶原景時が申し上げたのも、このことでございます。たとえ千金を延べて作った弓であっても、お命に代えることはできません。」と、涙を流して申し上げた。すると、判官(義経)は、これをお聞きになり、「いや、弓を惜しんだのではない。義経は源平の合戦に弓矢を取って戦ってきたが、自分のためではない。そうはいえども、私の武名はまだ半分にも達していない。そこでこの弓を敵に取られてしまい、義経は弱い武将だと言われるのは無念なことだ。仮にそのために討ち取られたとしても、しかたのないことで、義経の運の尽きと思えばよい。もし運が尽きていないのなら敵には渡したくないと、波に引かれていった弓を取りに行ったのだ。武士の名は末代まで残るものではないか。」とおっしゃったので、兼房も、そのほかの人々も、皆感涙を流した。
※この「義経による物語」の解説は、「八島 (能)」の解説の一部です。
「義経による物語」を含む「八島 (能)」の記事については、「八島 (能)」の概要を参照ください。
- 義経による物語のページへのリンク