義経の死と忠衡の誅殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 02:41 UTC 版)
忠衡は父の遺言を守り、義経を大将軍にして頼朝に対抗しようと主張するが、兄の泰衡は頼朝の圧力に屈して、義経とその妻子・主従を殺害。文治5年(1189年)6月13日、泰衡は義経の首を酒に浸して鎌倉へ送り恭順の意を示した。しかし、頼朝の目的は背後を脅かし続けていた奥州藤原氏の殲滅にあり、これまで義経を匿ってきた罪は反逆以上のものとして泰衡追討の宣旨を求めるとともに全国に動員令を発した。鎌倉方の強硬姿勢に動揺した奥州では内紛が起こり、忠衡は父の遺言を破った泰衡に対して反乱を起こした(或いは反乱を計画した)と考えられ、忠衡は義経に同意した として、意見が対立した泰衡によって誅殺された(『吾妻鏡』文治5年6月26日条)。享年23。更に『尊卑分脈』の記述によれば、五弟で忠衡の同母弟とされる通衡も共に討たれている。「奥州に兵革あり」と記録されている事から、忠衡の誅殺には軍事的衝突を伴ったと見られる。
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