義経は清国の祖になる
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「義経=ジンギスカン説」の記事における「義経は清国の祖になる」の解説
渡金説は効力を失ったが寛政4年(1792年)蝦夷を訪れた串原正峯(くしはらせいほう)は『夷諺俗話(いおんぞくばなし)』第一巻にアイヌの人々が義経の武威に恐れ服したとして、「夫(それ)より全国(金の國)へ渡り給いしよし云い伝うる事なるか」と記しており、蝦夷地にまで金に渡ったという流言が広がっていたことが窺える。また延享3年(1746年)の跋を有する米山沾涼(よねやませんりょう)『本朝俗諺志(ほんちょうぞくげんし)』巻四には義経が樺太で農耕と文字を教えて国王となり源国を建てたとする話がある。初めのうちは義経は金国の臣下だとする話に留まっていたがその後はエスカレートして国王レベルまで祭り上げられる。明和5年(1766年)刊の滕英勝(とうえいしょう)著『通俗義経蝦夷軍談』(『札幌大学総合論叢』三、北海道立図書館本)には白石著『蝦夷志』の知識に頼りながらも、筋立ては義経が蝦夷軍との戦いに勝利する過程を描いているが、この書で清国の祖となっている。衣川で義経の死は諸書で歴然とし「義経金へ渡りしという説あれどもその証慥(たし)かならず」と渡金説を否定しながら清で門毎に貼られている義経の画像を慥かな証拠とし「今中国の天子は義経の子孫なりと伝えり」と断定してついに義経は清国となっている。義経伝説は近世初期には蝦夷渡海説が主流だったが、同時に大陸へ渡ったとする説も一部に存在したと思われ、世の話題に上るのは天明7年(1783年)年刊行の森長見 の『国学忘貝(こくがくわすれがい)』であった。同書巻下の『図書集成』に 「義経之裔(えい)、その先(せん)は清和に出ず。故に國を清と号すとあり、清と号するは清和帝の清なり」 と記されている。これも捏造であった。 「#国学忘貝について」も参照 庶民には江戸後期に、金の将軍になったり、松浦静山の『甲子夜話』文政4年(1821年)および『甲子夜話続編』や、義経が韃靼に渡り、その子孫が清和源氏の一字をとって、清国を興したとする説が幕末までは一般的であった。通俗小説の世界では、嘉永3年(1850年)に、永楽舎一水の『義経蝦夷談』に義経がジンギスカンになったとする話がある。
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