義経不死伝説はいかにして起こったか
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:18 UTC 版)
「義経=ジンギスカン説」の記事における「義経不死伝説はいかにして起こったか」の解説
判官びいきは、早くも南北朝時代から室町時代初期に成立したと考えられる軍記物語『義経記』にあらわれている。五味文彦(日本中世史)は鎌倉時代成立の『曽我物語』が御霊信仰の影響の強い作品であるのに対し、『義経記』にはそれが希薄であることを指摘している。五味は、それを根拠に『義経記』の鎌倉時代成立説に疑義を呈し、鎌倉幕府治下において義経の活躍を描くにはいたらなかったであろうと推測している。また、南北朝時代にはいって、室町幕府創業に大きく寄与したのが足利尊氏・直義の兄弟であったことから、頼朝・義経兄弟の活動に目が向けられたのではないか、としている。 『義経記』は、能や幸若舞曲、御伽草子、浮世草子、歌舞伎、人形浄瑠璃など、後世の多くの文芸や演劇に影響を与え、今日の義経やその周辺の人間像は、この物語に準拠しているとされる。義経主従など登場人物の感情が生き生きと描かれ、人物の描写にすぐれているとされる。しかし、義経死後200年を経過してからの成立と考えられ南北朝期成立の『太平記』巻二十九「将軍上洛事」に『義経記』にみえる若い時期の義経の活動が記されていることから、『義経記』成立はそれと前後する時期と考えられるため、『義経記』の作者は当事者たちの人柄を、直接的にも間接的にも知っていたとは考えられない。また、軍記物語の下地となりうる軍注記を利用したとも考えられていない。さらに、作中の行動のあちこちに矛盾が生じていることも指摘されており、歴史資料としてではなく物語として扱うのが妥当とされる。なお、『弁慶物語』の成立も応永から永享にかけての時期(1394年-1440年)と考えられている。 奥州衣川で文治5年4月30日に討ち取られたはずの義経であるが、藤原泰衡は、そのことを5月22日に報告し、義経の首は6月13日に鎌倉の頼朝のもとに届けられた。つまり、当時としても遅すぎる感があり、これは義経の本当の首ではないのではないかという憶測を生んだのであり、さらに義経は高舘では自刃していないという伝説を生んだ。これを義経不死伝説と呼んでいる。もとより、この経緯は『吾妻鏡』の記述によるものであり、当の『吾妻鏡』では義経が衣川で死んだと記述している。後述するように、江戸時代には義経北行伝説が成立するが、その原型となった説話が室町時代の御伽草子にみられる。「御曹子島渡」説話とよばれる話がそれであり、これは、頼朝挙兵以前の青年時代の義経が、藤原秀衡より、北の国の都に「かねひら大王」が住み、「大日の法」と称する兵書があることを聞き、四国の土佐の港 から出帆、神仏の加護を得て、半身半馬の人びとの住む「王せん島」、「裸人の島」、「女護の島」、「小さ子の住む島」、当時「渡島」と呼ばれていた「蝦夷が島」(北海道)を経て「千島」の喜見城にたどりつき、大王の娘と契るがその過程でさまざまな怪異を体験するという物語であった。「御曹子島渡」説話は、当時渡党など蝦夷地を舞台に活躍する集団の存在や予想以上に活発だった北方海域の交易の様相が広く中央にも知られるようになった事実を反映しているものと考えられる。
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