将軍上洛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 18:56 UTC 版)
安土城築城以前に織田信長は、上洛に際して永禄11年9月22日(1568年10月12日)蒲生郡桑実寺より翌々日には守山に、元亀元年5月12日(1570年6月15日)に野洲郡守山(現守山市)より同郡永原(現野洲市)に入った記録があり、信長の天下布武において重要な役割を担った道であった。慶長5年9月18日(1600年10月24日)、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利した後、佐和山より永原に至り上洛凱旋する際この道を通り、秀忠もこの道を用いて永原に逗留し軍が整うのを待ち上洛した。このため縁起が良い道と認識され、3代将軍家光も上洛する際はこの道を通り、この道に権威を持たせるために参勤交代の諸大名に通行禁止を命じた。以降将軍上洛の度に用いられ、沿道には永原(永原茶御殿)と神崎郡伊庭(現東近江市)に将軍休息所を設け、将軍専用の道とされ参勤交代での大名使用は認められていなかった。
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