盛り返す京都の攘夷論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 17:00 UTC 版)
「八月十八日の政変」の記事における「盛り返す京都の攘夷論」の解説
長州は航海遠略策の入説に失敗し、久光の率兵上洛で盛り上がった尊攘運動に呼応するように攘夷方針に転換したところ、その薩摩が急進派を鎮圧して勅命を得たため、公武周旋の主導権を奪われる形となった。その焦慮と対抗意識から尊攘運動への没入を深め急進化していくことになる。勅命は長州に薩摩への協力を求めていたが、それに不満な藩主毛利敬親(慶親)は勅使が到着する前日に江戸を離れ、7月に入京すると朝廷の許しを求め、公武周旋の内容を「将軍上洛と開国論」から「将軍上洛と攘夷論」に転換した。長州は10年の猶予を待たない即時の破約攘夷を主張し、その工作で朝廷内の急進派も勢いを増した。 また、土佐勤王党を率いる武市瑞山(半平太)が藩主山内豊範に続いて8月に入京した。開国派の前藩主山内容堂は幕政に参与することになったが、にもかかわらず武市は長州の久坂玄瑞とも連絡を取り、周旋の勅命を得て幕府に即今攘夷を突きつけ追い込もうとしていた。浪士が全国から次々に京都へ流れ込んで天誅が頻発し、京都所司代は勢いを盛り返した尊攘派に対処できなくなった。テロの脅威は公家の身辺にも及び、これを背景に朝廷でも攘夷論が急進化していったが、政事総裁職松平春嶽は対策として同じ徳川一門大名の会津藩主松平容保に新設の京都守護職への就任を要請し、容保は再三の懇請に負けて閏8月1日に就任した。容保が京都に入り、黒谷の金戒光明寺に本陣を置くのは12月に入ってからである。 閏8月7日に京都に戻った島津久光は、これまでの周旋などの功により特例的に参内を許された。しかし、この時の京都は先の上洛時から雰囲気一転して急進的攘夷論が圧倒する勢いで、久光は即今攘夷不可を朝廷に工作するも成果はなく、10日余りで帰国した。薩摩派の公家岩倉具視も三条実美・姉小路公知ら急進派公家13名から弾劾を受けて辞官落飾し、引退を余儀なくされた。薩摩は長州など急進派の猛烈な巻き返しによって事実上追い落とされた。 10月4日に長州藩主毛利敬親が、10月5日に土佐藩主山内豊範が参内を許されたが、これは久光の場合と異なり正式な参内だった。薩長土に続いて10月20日には因州(鳥取)藩主池田慶徳(一橋慶喜の実兄)が参内を果たし、以降後れを取るまいと上洛・参内する大名は増加の一途をたどり、京都の政治的求心力はますます大きくなった。
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