義経伝説と近世までの射水川河口における渡船とは? わかりやすく解説

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義経伝説と近世までの射水川河口における渡船

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 04:44 UTC 版)

如意の渡し」の記事における「義経伝説と近世までの射水川河口における渡船」の解説

義経記』に奥州落ちのびる源義経如意の渡し乗船しようとしたとき、渡守の平権守義経一行であることを見破られるが、武蔵坊弁慶の扇で義経打ちすえるという機転無事に乗船できたという話があり、加賀藩森田柿園の『越中志徴』においてはこれを射水川河口部対岸を結ぶ渡船のことであるとした。この説によってこの渡船義経弁慶ゆかりの地とされ、1990年平成2年9月26日には待合所近辺に源義経武蔵坊弁慶の像が建てられるなど、義経伝説利用した観光需要掘り起こしが行われていたが、『義経記』は後世創作され小説であってこの伝説も史実ではないとされるまた、義経記』にいう如意の渡はその表現から学術上は西礪波郡埴生村蓮沼附近より六渡寺へ至る射水川上下する船運をいうのであって伏木より六渡寺射水川横断する渡船ではないとされている。 射水川河口部横断する渡船史料への初出は、天文年間から永禄年間にかけてのものであって少なくとも近古からは渡船存在していたといわれる1584年天正12年)には神保氏張によって伏木古国府勝興寺参詣する坊主衆寺内者の渡船賃が免除された。その後近世入り越中国加賀藩治下となってからも渡船存在しており、1616年元和2年時点においては六渡寺に船1艘が常備されていたという。1666年寛文6年)からは船は2艘となり、渡守は8人が置かれたが、1722年享保7年)に再び船1艘、渡守4人の体制となった1739年元文4年)には渡守が2名増員され、計6名体制となった近世における射水川河口渡船には、2本の航路があった。ひとつは伏木から六渡寺の浜往来を結ぶ河口の「下渡」であり、もうひとつ下渡より上流古国府勝興寺門前より三ヶ新方面を結ぶ「上渡」である。一般旅客下渡利用しており、上渡は「御用渡し」と呼ばれ藩の公用用いられた。渡守には給金屋敷与えられた。古国府渡場附近には茶屋船渡小屋建てられていたといわれる

※この「義経伝説と近世までの射水川河口における渡船」の解説は、「如意の渡し」の解説の一部です。
「義経伝説と近世までの射水川河口における渡船」を含む「如意の渡し」の記事については、「如意の渡し」の概要を参照ください。

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