義経伝説と近世までの射水川河口における渡船
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「如意の渡し」の記事における「義経伝説と近世までの射水川河口における渡船」の解説
『義経記』に奥州に落ちのびる源義経が如意の渡しに乗船しようとしたとき、渡守の平権守に義経一行であることを見破られるが、武蔵坊弁慶の扇で義経を打ちすえるという機転で無事に乗船できたという話があり、加賀藩士森田柿園の『越中志徴』においてはこれを射水川河口部の対岸を結ぶ渡船のことであるとした。この説によってこの渡船は義経と弁慶ゆかりの地とされ、1990年(平成2年)9月26日には待合所近辺に源義経と武蔵坊弁慶の像が建てられるなど、義経伝説を利用した観光需要の掘り起こしが行われていたが、『義経記』は後世に創作された小説であってこの伝説も史実ではないとされる。また、『義経記』にいう如意の渡はその表現から学術上は西礪波郡埴生村の蓮沼附近より六渡寺へ至る射水川を上下する船運をいうのであって、伏木より六渡寺へ射水川を横断する渡船ではないとされている。 射水川河口部を横断する渡船の史料への初出は、天文年間から永禄年間にかけてのものであって、少なくとも近古からは渡船が存在していたといわれる。1584年(天正12年)には神保氏張によって伏木古国府の勝興寺に参詣する坊主衆や寺内者の渡船賃が免除された。その後、近世に入り越中国が加賀藩の治下となってからも渡船は存在しており、1616年(元和2年)時点においては六渡寺に船1艘が常備されていたという。1666年(寛文6年)からは船は2艘となり、渡守は8人が置かれたが、1722年(享保7年)に再び船1艘、渡守4人の体制となった。1739年(元文4年)には渡守が2名増員され、計6名体制となった。 近世における射水川河口の渡船には、2本の航路があった。ひとつは伏木から六渡寺の浜往来を結ぶ河口の「下渡」であり、もうひとつは下渡より上流の古国府の勝興寺門前より三ヶ新方面を結ぶ「上渡」である。一般の旅客は下渡を利用しており、上渡は「御用渡し」と呼ばれ藩の公用に用いられた。渡守には給金と屋敷が与えられた。古国府の渡場附近には茶屋と船渡小屋が建てられていたといわれる。
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