義経北行伝承地
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「義経=ジンギスカン説」の記事における「義経北行伝承地」の解説
史跡所在地詳細亀井文書(借用書) 岩手県油田村 食糧調達の亀井六郎が、油田村の惣平氏より糧米粟七斗(126kg)借用したとする文書。文治四年四月(1188年)の日付。義経、弁慶、亀井の連名で署名。 高舘 岩手県平泉 泰衡の報告ではここが最後の地とされている。 観福寺 岩手県一関市大東町 一行は観福寺に宿泊し、蝦夷入りの行程を検討したと伝えられる。亀井六郎重清の笈が寺宝として残されている。 弁慶屋敷 岩手県奥州市江刺 一行は夜に菅原家にて白粟五升(9kg)を借り、粥を炊かせて食した後立ち去った。弁慶が足を洗った池が存在する。 多門寺 岩手県奥州市江刺 多門寺の末寺である重染寺には鈴木三郎重家の子重染が正治年中に創建されたと伝わる。 玉崎神社 岩手県奥州市江刺 一行は十数人、馬数頭で来て五日間逗留し玉崎の牧馬山に馬を放った。 源休館 岩手県奥州市江刺 源休館では数日間休息をとったと伝えられる。『平泉雑記』に記載がある。 判官山 岩手県気仙郡住田町 判官山(別名黒山)九郎の転化と思われる。野宿しながら険しい山を越えたと伝承。慶長10年に書かれた宮古判官稲荷縁起に「黒舘」との記載がある。 法冠神社 岩手県釜石市 一行が野宿したと伝えられている。「ほうかん」と呼んだと伝わっている。 判官家 岩手県下閉伊郡山田町大沢 義経一行が宿泊したとされる家。そのため、明治以前は「判官」の姓を名乗っている。今も判官の名が入った墓石が残る。 佐藤家 岩手県下伊郡山田町関口 義経の軍師「佐藤庄司基治」の子信正が、義経一行を案内して、当地まで来たことを示す文書がある。文治4年申ノ九月(1188年)の日付。氏神の棟札慶長8年(1603年) 判官神社 岩手県宮古市津軽石 義経を祀る祠(ほこら)がある。義経一行がこの地に滞在したことから、「判官館」とよばれるようになった。 横山八幡宮 岩手県宮古市宮町 義経一行が松前渡海の安全祈願をしたという神社。弁慶直筆の大般若経が収められていたと伝わる。一行は義経、弁慶、依田源八兵衛弘綱、亀井六郎重清、鈴木三郎重家など。鈴木三郎重家は老齢のためこの地に留まると神主になったと伝えられる。 御堂華、出雲家 岩手県宮古市 義経一行が15、6人でやってきて、粟を六升(11kg)借りて証文を置いていった。 吉内(よしうち)屋敷 岩手県下閉郡田老町乙部 かつては「きちない」と呼ばれた。金売吉次の弟吉内の屋敷。義経が着用したという兜は、宮古市本町の志賀家で所蔵。
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