義経北行伝承地とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 義経北行伝承地の意味・解説 

義経北行伝承地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:18 UTC 版)

義経=ジンギスカン説」の記事における「義経北行伝承地」の解説

史跡所在地詳細亀井文書借用書岩手県油田村 食糧調達亀井六郎が、油田村の惣平氏より糧米粟七斗(126kg)借用したとする文書文治四年四月1188年)の日付義経弁慶亀井連名署名高舘 岩手県平泉 泰衡の報告ではここが最後の地とされている。 観福寺 岩手県一関市大東町 一行観福寺宿泊し蝦夷入り行程検討した伝えられる亀井六郎重清の笈が寺宝として残されている。 弁慶屋岩手県奥州市江刺 一行夜に菅原家にて白粟五升(9kg)を借り、粥を炊かせて食した立ち去った弁慶足を洗った池が存在する多門寺 岩手県奥州市江刺 多門寺末寺である重染寺には鈴木三郎家の子重染が正治年中創建されたと伝わる。 玉崎神社 岩手県奥州市江刺 一行十数人、馬数頭で来て五日逗留し玉崎牧馬山に馬を放った源休岩手県奥州市江刺 源休館では数日間休息をとったと伝えられる。『平泉雑記』に記載がある。 判官岩手県気仙郡住田町 判官山(別名黒山九郎転化思われる野宿しながら険しい山越えた伝承慶長10年書かれ宮古判官稲荷縁起に「黒舘」との記載がある。 法冠神社 岩手県釜石市 一行野宿した伝えられている。「ほうかん」と呼んだ伝わっている。 判官岩手県下閉伊郡山田町大沢 義経一行宿泊したとされる家。そのため、明治以前は「判官」の姓を名乗っている。今も判官の名が入った墓石が残る。 佐藤岩手県下伊郡山田町関口 義経軍師佐藤庄司基治」の子信正が、義経一行案内して当地まで来たことを示す文書がある。文治4年申ノ九月1188年)の日付氏神棟札慶長8年1603年判官神社 岩手県宮古市津軽石 義経祀る祠(ほこら)がある。義経一行がこの地に滞在したことから、「判官館」とよばれるようになった横山八幡宮 岩手県宮古市宮町 義経一行松前渡海の安全祈願をしたという神社弁慶直筆大般若経収められていたと伝わる。一行義経弁慶依田源八兵衛弘綱、亀井六郎重清鈴木三郎重家など。鈴木三郎重家は老齢のためこの地に留まる神主になった伝えられる御堂出雲岩手県宮古市 義経一行15、6人でやってきて、粟を六升(11kg)借りて証文置いていった。 吉内(よしうち)屋敷 岩手県下閉郡田老町乙部 かつては「きちない」と呼ばれた金売吉次の弟吉内の屋敷義経着用したという兜は、宮古市本町志賀家所蔵

※この「義経北行伝承地」の解説は、「義経=ジンギスカン説」の解説の一部です。
「義経北行伝承地」を含む「義経=ジンギスカン説」の記事については、「義経=ジンギスカン説」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「義経北行伝承地」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「義経北行伝承地」の関連用語

義経北行伝承地のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



義経北行伝承地のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの義経=ジンギスカン説 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS