義経失脚
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義経が都に戻って4ヶ月後の同年10月9日、頼朝が土佐坊昌俊を差し向け義経討伐を計る。義経は10月13日に後白河法皇の御所に参院し叔父・源行家と共に頼朝追討の院宣を要請。17日に義経が昌俊の襲撃を返り討つと、18日に頼朝追討の宣旨が下る。10月23日、鎌倉で河越重房が義経の縁戚である事を理由に、勝長寿院落慶供養の随兵から外されている。29日、頼朝が義経討伐のため鎌倉から都へ向けて出陣すると、11月3日、義経は郎党ら200騎を率いて京都を退去する。11月12日、河越重頼が義経の縁戚であるとして領地を没収され、後に重頼・重房ともに誅殺された。郷が義経に嫁いでわずか1年後の事であった。 この頃の郷の動向は不明だが、義経が京都の近辺に潜伏していた文治2年(1186年)に娘が誕生している事から、京都在中に懐妊し、都の近辺に身を隠して出産したものと推測される。細川涼一は、頼朝方が義経の母・常盤御前の証言により岩倉を捜索したという逸話に注目し、常盤御前が郷御前を岩倉の大雲寺(岩倉観音)に一時的に匿ってそこで娘を生ませたと推測する。 文治3年(1187年)2月10日、義経は陸奥国の藤原秀衡を頼り、郷と子らを伴い奥州に赴く。一行は山伏と稚児の姿に身をやつしていた。 文治5年(1189年)閏4月30日、頼朝の命を受けた藤原泰衡が、従兵数百騎で義経が暮らす衣川館を襲撃。義経は持仏堂に入り、22歳の郷と4歳の娘を殺害したのち自害した。 平泉町金鶏山の麓にある千手堂境内に、義経妻子の墓がある。 奥州市衣川の雲際寺は郷が再興したとされ、郷の守り本尊に由来すると伝えられる。不動明王と、義経夫妻の位牌が安置されていたが、平成20年(2008年)8月6日、同寺の火災により焼失した。位牌に記された戒名は「局山妙好尼大姉」。 河越氏の所領は後家となった河越尼に安堵されるが、その後生き残った郷の兄弟たちが吾妻鏡の記録に現れるのは、父・重頼誅殺の20年後である。 千手堂境内 墓石 金鶏山登山道入り口 雲際寺
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義経失脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 03:56 UTC 版)
景季らは後に許されて鎌倉へ帰還しているが、義経は許されることはなく鎌倉近辺の腰越まで来たが京へ追い返された。同年9月、景季は義勝房成尋とともに頼朝の使者として上洛した。目的は勝長寿院供養の道具を求め、併せて平氏残党の配流を朝廷に促すためだが、同時に義経へ叔父の源行家を追討するよう頼朝の命を伝えることになっていた。景季は義経の邸を訪ねるが病であるとして面会を断られた。一両日待って再び訪れると面会を許され、義経は脇息にもたれて衰弱した様子で病が癒えるまで行家追討はできない旨を伝えられた。 景季が鎌倉へ帰還して頼朝へこの旨を伝えると、父の景時は面会一両日待たせたのは不審である、食を断って衰弱して見せたのに相違なく、義経と行家は既に同心していると言上した。 その後、義経と行家は挙兵するが失敗し、義経は奥州藤原氏のもとへ逃れるが、文治5年(1189年)に藤原泰衡の軍勢に襲撃され平泉衣川館で自害した。 同年7月、頼朝は奥州藤原氏討伐のため大軍を率いて鎌倉を進発。景季は父や弟たち一族とともに従軍した。白河関で景季は召されて和歌を献じている。頼朝は大勝して、奥州藤原氏は滅びた(奥州合戦)。 文治6年(1190年)、頼朝が上洛すると景季もこれに供奉している。 建久4年(1193年)、甲斐源氏の安田義定の子の義資が上皇の女房へ艶書を投げ込む事件が起きた。女房所は後難を恐れてこれを秘匿していたが、景季の妾の龍樹の前がこれを語り、景季が景時へ伝えた。景時は頼朝に言上し、義資は斬首され、義定も所領を没収された。 景季は有力御家人として活動し、鎌倉幕府の諸行事に参列したり、奉行を務めるなどしばしばその名が見える。父・景時は頼朝に重用され、侍所別当に任じられて権勢を振るった。
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