義経追放とは? わかりやすく解説

義経追放

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:52 UTC 版)

源頼朝」の記事における「義経追放」の解説

文治元年1185年4月平家追討侍所所司として義経補佐務めた梶原景時から、義経弾劾した書状が届く。4月15日頼朝は自由任官禁止令に違反し内挙を得ず朝廷から任官受けた関東武士らの任官罵り東国への帰還禁じるが、同じく任官受けた義経には咎め与えなかった。ところが、景時の書状の他にも、範頼の管轄への越権行為配下東国武士達への勝手な処罰など義経専横訴え報告入り5月御家人達に義経に従ってならないという命が出された。その頃義経平宗盛父子伴い相模国凱旋する頼朝義経鎌倉入り許さず宗盛父子のみを鎌倉入れる。腰越留まる義経は、許しを請う腰越状を送るが、頼朝宗盛との面会終えると、義経鎌倉入れぬまま、6月9日宗盛父子平重衡を伴わせ帰洛命じる。義経頼朝深く恨み、「関東に於いて怨みを成すの輩は、義経に属くべき」と言い放つ。これを聞いた頼朝は、義経所領全て没収した義経近江国宗盛父子斬首重衡自身焼き討ちにした東大寺へ送ると、8月4日頼朝叔父・行家の追討佐々木定綱命じた9月入り京の義経様子を探るべく梶原景季遣わすと、義経痩せ衰えた体で景季の前に現れ、行家追討要請に、自身の病と行家が同じ源氏であることを理由断った10月鎌倉戻った景季からの報告受けた頼朝は、義経と行家が通じていると断じ義経誅するべく家人土佐坊昌俊を京に送る。対して義経は、頼朝追討勅許後白河法皇求めた10月17日頼朝の命を受けた土佐坊六十余騎が京の義経邸を襲ったが、応戦する義経に行家が加勢して襲撃失敗に終わる。義経土佐坊頼朝の命で送られたことを確かめ頼朝追討宣旨を再び朝廷求め後白河法皇義経宣旨下した10月24日頼朝源氏一門多く御家人集め、父・義朝菩提寺勝長寿院落成供養行ったその日の夜、朝廷頼朝追討宣旨対抗して御家人達に即時上洛の命を出すが、その時鎌倉集まっていた2,098人の武士のうち、命に応じた者はわずか58であった頼朝は自らの出陣決め、行家と義経を討つべく29日鎌倉を発つと、11月1日駿河国黄瀬川着陣した。対す義経頼朝追討の兵が集まらず、後白河法皇九州四国支配権認めさせた後、11月3日郎党や行と共に戦わずして京を落ちた海路西国目指す途上暴風雨会い船団難破一行散り散りになり、義経行方くらませ、妾の静御前吉野山捕らえられている。なお義経九州迎えようと岡城築いていた豊後国緒方惟栄上野国沼田配流され、豊後国一時関東御分国となった

※この「義経追放」の解説は、「源頼朝」の解説の一部です。
「義経追放」を含む「源頼朝」の記事については、「源頼朝」の概要を参照ください。

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