義経韃靼に行き金の将軍になる
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「義経=ジンギスカン説」の記事における「義経韃靼に行き金の将軍になる」の解説
義経渡海説は飛躍して大陸に渡ることになる。初めのうちは『御曹子島渡』の影響が強かったが、寛永20年(1643年)の越前新保船漂流事件 あたりから、義経が大陸へ渡ったとする説が囁かれるようになる。大陸入部説の比較的古い例としては、延宝年間(1673~81)以降の成立とされ、津軽藩主の子で京都養源院の住職が記した『可足記』にという。 義経の首は身代わりの家臣のモノで藤原泰衡の死後、義行と名を変え、高館から鎌倉を攻めようとしたが失敗して外ヶ浜に逃げ逃れた。そして御厩(みんまや)から狄ガ島(えぞがしま)へ漂着して戻らず金へ渡ってその子孫が源義澄と名乗った 個人的な日記で公刊されたわけではなくこの頃はまだ一部の知識人同士で話題になっていた。 それから注目されたのが近世も中期の18世紀に義経が蝦夷から金(女真)に渡って、活躍したという『金史別本』である。「12世紀の金の将軍に源義経なる者がいた」などと記された偽書である。 享保2年(1717年)この『金史別本』が史学界で問題になり、新井白石は偽書だと見抜いた。また他の書物も捏造・偽書が多数生まれ、印刷技術も出版流通も未発達なこの時代「金史別本」問題は後々まで長引かせその影響は少なからずあった。白石の他にも疑問を抱いたのは篠崎東海 で「金史別本」に対し痛烈な批判を行っている。 「#金史別本について」も参照
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