『金史別本』
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「義経=ジンギスカン説」の記事における「『金史別本』」の解説
享保2 (1717) 加藤謙齋著『鎌倉実記』が刊行され付属の『金史別本』が注目される。『金史別本』は金の正史である『金史』の外伝を称した。近世は中期に義経が蝦夷から金(女真)に渡って活躍したという議論が話題を呼んだ。享保2(1717)年に刊行された加藤謙齋書『鎌倉実記』巻17には「高館没落し義経金国に遁(のがるる)事」の項があり、 「金史列将伝に曰く[金史別本]範車(はんしゃ)国の大将軍光録(こうろく)大膳の大夫義鎮(よししげ)は日東(日本)の陸華仙(りっかせん)の権冠者義行(ごんがのかじゃよしゆき)の子也」 という引用を行った上で、 「俗説に蝦夷人義経を信敬する、神の如し、いかさまにも蝦ままを従えて後に金に渡り章宗(同書では二代とするが六代の誤)に仕え玉うなるべし」 としている。史書「金史別本」の金史列将伝に見える源義鎮とは、義行つまり義経の子で、蝦夷を従え金に渡った義経自身も章宗に仕えたという。しかし「金史別本」なる書は存在せず、全くの捏造であったが、仙台藩史を編纂した儒学者・佐久間洞巌(どうがん)が騙され、その著『奥羽観蹟聞老志(おううかんせきもんろうし)」巻17の「義経事実考付録」で『鎌倉実記』の金史別本を引き、義経が金に渡った事は「異国の書に符合すれば決定疑うべからず」としている。 洞巌は白石と文通による交流があったが、この金史の記述について、白石は疑問を挟みつつもかなりの興味を抱いた。白石は安積澹泊への書簡では(『新安書簡』、『新井白石全集5』)、享保8(1723)年7月12日には「金逸史(いっし)の事……誰某見候(たれがしみそうろう)とばかりにて、写しも得られず候の事、俗人の疎放(そほう)にやと、是非に及ばず候」としつつも、別の書簡には、「金史に義経の事候由、いかにもいかにも六七年以前に、此方へも僧家(そうけ)事候て、金史一行も残らず暮らせたる事に候、兎角見え候わぬ故(ゆえ)、伝聞の訛(あやまり)と打ち捨てさし置き候らいき」と記したが、入手できそうだと聞くと写しを所望している。 白石は別本であることを疑い、全体の拙さを指摘して即座に謀書であることを見抜き、年月日未詳の書簡には 「地名官号はさておき、文字の拙き、一句として見るに足るべくも候所もなく覚候、世にはかかる妄人も候て、世をたぶらかし人を欺き候事、いかなる事に候歟(そうろうか)」 と綴り憤っている。他に「金史別本」を疑った人物に篠崎東海がいて、宝暦8(1758)刊の『和学弁』写しの『東海談』巻上で、「金史別本」に対して痛烈な批判を行っている。東海は偽書で作者は中根丈右衛門の知音とし、さらに 「「鎌倉実記」の編末に金史別本と云う書を引きて書きたるは跡形もなきそら言也、予金史別本と云うは偽書なりと知りて、中根丈右衛門と論じて偽作せし人を屈服せしめたり、中根氏も是に我を折し也」 と記し、著者に直接正して虚妄性を暴いている。これが徐々に知れ渡り諸書で「金史別本」批判がおこなれた。 佐久間洞厳の弟子で仙台藩医の相原友直 は『平泉雑記』巻1の「義経蝦夷へ渡る」では詳細に資料を吟味し、『吾妻鑑』に史料はよるべきだとし、異国で義行という名を名乗ることや日東陸華仙などいう地名はないと反論し『鎌倉実記』は人々を欺く偽書だと否定している。 この偽書について金田一京助は永田方正が「『鎌倉実記』と『金史別本』の作者は沢田源内」という説を受け沢田源内を捏造者と断定した(『世界』75号所収)。作家光瀬龍はこの金田一説を踏襲し、テレビ番組で論説した(歴史発見)。 この偽書には、清の乾隆帝の御文の一節と称する 朕の先祖の姓は源、名は義経という。その祖は清和から出たので国号を清としたのだ という一節もある。
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