『金史別本』の偽撰者はだれか
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「義経=ジンギスカン説」の記事における「『金史別本』の偽撰者はだれか」の解説
この本は『金史列将傳』とも記され、中身は「源義行」となっている。どうも金史別本の作者は沢田ではなく篠崎東海によると中根丈右衛門の知音ということになるが、断定は出来ない。 ところが岩崎克己は『鎌倉実記』の著者加藤謙斎 を金史別本の偽撰者と断定し、金田一が義行傳(金史別本)の偽作は沢田源内に胚胎するもので、『鎌倉実記』を沢田源内の偽作としたが、永田方正の誤解をさらに誤解したものだと記している(『義経入夷渡満説書誌』昭和18年)。源内が元禄元年(1688年)年で70歳ということは逆算すれば元和年間(1615年~24)初期の生まれと言うことになるから、伊勢貞丈の『安西随筆』に慶長年間(1596年~1615年)には、源内が既に旺盛な捏造活動をしていた事が確認できるので、元禄元年没とするにはかなり苦しく、貞享4年(1687年)年生まれの篠崎東海が沢田源内と対決するには無理があり、『大系図評判遮中抄』によれば、篠崎東海はまだ一歳の赤子であるから、篠崎は沢田源内とは会っていないと推定できる。「沢田源内を加藤謙齋に置き換えると謙齋は享保9年(1724年)の春に没しているから、多少現実味を帯びてくる。沢田源内が『金史別本』の偽撰者とするには根拠がなく、『和学弁』記載に従い『鎌倉実記』の著者(謙齋)に当てるのが自然の順序である。金田一博士の説のごとく『鎌倉実記がまずまんまと騙されて、麗々とその偽作の文句を引用した』のではなく、騙したのは『鎌倉実記』そのものであり、偽作の『金史別本』は『鎌倉実記』の著者加藤謙齋その人の創作なのである」と岩崎は断言している。 作家の森村宗冬 は『金史』別本捏造の大ペテン師のような印象を持つが、実像は教育者にして医学者であり、医学・儒学・本草学・詩文に通じ京都で医業を営む傍ら、多くの門人を育成し『日用療法』などの医学書も書いている。贋作作成を生活手段としているならいざ知らず、地位・教養を身につけている加藤謙齋がなぜこのような偽書を書いたのかと疑問視している。しかし、篠崎東海は宝暦8(1758)刊の『和学弁』写しの『東海談』巻上で、「金史別本」作者とする人物を屈服させているが、謙齋は享保9年(1724年)の春に没していて死後34年も経っているので、謙齋ではないことが判る。 結局のところ、本当の作者は判らず、岩崎は加藤謙齋であるとし、森村氏もこれを支持しているが、篠崎東海が中根丈右衛門の知音を屈服せしめたとし、謙齋の没年齢からも謙齋の偽作は不可能である他、白石は『金史別本』を稚拙な書き物として偽書を見破ったが『鎌倉実記』については何も触れておらず、この書が偽書だとは白石の書からは確認できない。従って『金史別本』の偽撰者を加藤謙齋とするには少し苦しい。金田一博士が支持した沢田源内偽撰者説は源内の生きた年代から無理があり違うと思われ、加藤謙齋偽撰者説も違うと思われる。真犯人は篠崎東海だけが知っており、これが発刊されてから41年が経過し、生きていたのなら高齢の人物(加藤謙齋に近い人物?(弟子など)か)と思われる。
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