渡満
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「鈴木則子 (中国残留婦人)」の記事における「渡満」の解説
1943年7月、旧制日本橋高女在学中、家族とともに中国東北部(旧満州)に開拓団として渡った。参加したのは転業開拓団である仁義仏立講開拓団。入植地は、ソ連と満州の国境地帯である(旧満州)興安南省・哈拉黒(ハラヘイ)であり、ノモンハン事件の場所に近かった。
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渡満
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昭和12年(1937年)、盧溝橋事件を発端として支那事変が勃発すると、「尽忠報国」の念を胸に抱く。 日清・日露両戦役で血を流した十万の兵士たち、その英霊の眠る満蒙の天地は日本の生命線であるが、今や国家存亡の時である。これを守るために我々若者は一死を以て御奉公するべきだ。 — 立石賢治 と考え、渡満を決意。父母の反対を押し切り、昭和14年(1939年)6月、静狩より出発。函館から連絡船で内地に渡り、鉄道に乗った賢治は、このことを天皇陛下にご報告しなければならないと考え、東京で下車。皇居の二重橋前で高山彦九郎のように土下座。宮城を拝し、 陛下、どうぞ御心を安んじてください。立石賢治は、いま、天皇陛下の御為に一身を捧げ、これより満蒙の天地へ命を捨てに参ります。 — 立石賢治 と誓った。その後、汽車で下関まで行き、下関から釜山行きの連絡船に乗って玄海灘を渡る。鉄道で朝鮮半島を縦断して満洲国へ。満洲では、豊楽路崇智胡同202号地に動物病院を開業していた長兄のもとに身を寄せ、満洲国郵政省の岡崎日本雄に会って「満洲国建設のために尽力したい」と胸内を語る。岡崎の知遇を得て、新京郵政管理局監理科(郵政業務の監査)に奉職。官舎独身寮に住し仕事をする傍ら、新京商業学校支那語科の夜学に通い中国語を学ぶ。「五族協和・王道楽土」のスローガンのもとに建国された満洲国の中にも、世の不条理や矛盾を多く抱えていることを知り悶々と苦悩する中で、昭和16年(1941年)12月8日、大東亜戦争(真珠湾攻撃)により、日本が対米戦争を開始したことを知る。満洲国においてもソ満国境付近における諜報通信の監視を目的として「特別諜報通信監視隊」が組織され、逓信講習所で電信技術の資格を得ていた賢治も軍務徴用せられ、海拉爾無線通信監視局で電波探知器を使用して暗合通信の検挙に従事する。また軍事郵便の取扱いも関わり、綏陽、揚崗、虎頭の地を転々とする。
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