渡海立志
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 16:18 UTC 版)
袋中は、かねてより明に渡って未だ見ぬ仏法を学びたいと望んでいたが、慶長7年(1602年)51歳の時についに渡明を決意する。郷里の岩城を旅立った袋中は、まず安芸国宮島(現在の広島県廿日市市宮島町)の光明院にいた実兄の以八上人を訪ねている。ここで袋中は以八上人と問答をおこなったが、『袋中上人絵詞伝』によれば、中国から渡った仏典はすでに見ているではないかと言う以八上人に対し、袋中は彼の地で学ぶためにそれら仏典を暗唱しているのであり、私は渡明の強い志があるのです、と答えたと言う。これに対し、以八上人の伝記である『以八上人行状記』によれば、以八上人は当初どうしても渡明したいのであれば止めはしないと言ったが、結局は渡明に反対し、称名念仏に精進するよう袋中を諭した。袋中は以八上人の高論を黙って聞き、一度は渡明を思いとどまったようであるが結局は渡海したと伝えている。 『中山世譜 巻7』には「万暦31年(1603年、和暦では慶長8年)扶桑の人である僧袋中、国に留ること3年、神道記一部を著して還る。」とあることから、袋中は以八上人との問答後、1年と経ずに渡海したと考えられる。『袋中上人絵詞伝』も、52歳で渡海を決意して西海に赴き便船を求め、55歳で帰国したという記事の内容から、渡海の時期は『中山世譜』と同じであると考えられる。これに対し、『以八上人行状記』には問答後はるかに年を経て渡海したと記されており、『中山世譜』や『袋中上人絵詞伝』とは齟齬がある。 また、袋中自筆の『寤寐集』(ごびしゅう)には、薩摩国梶木(現在の鹿児島県姶良市加治木町)政所の別当で、乱心した佐渡介に十念を授けて平癒に導いたこと、日向国鵜戸(現在の宮崎県日南市)に赴いて2ヵ月後に梶木へ戻ったことが記されている。『寤寐集』では、この時期が明確ではないが、『檀王法林寺 袋中上人 - 琉球と京都の架け橋 -』では上記の出来事は琉球に渡る前のことで、袋中は以八上人との問答の後、九州各地を行脚しながら渡明の機会を窺っていたのではないかと推測している。 九州行脚をおこなったのか否か、いずれにせよ前述の通り『袋中上人絵詞伝』では西海、すなわち九州で便船を求め渡海したとしている。袋中が出航した港についての記録はないが、『琉球神道記 巻末 袋中良定上人伝』では『寤寐集』にある平戸の法音寺に立ち寄った記事によって、『檀王法林寺 袋中上人 - 琉球と京都の架け橋 -』では『琉球神道記』の稿本奥書にある平戸から帰国したと言う記事によって、出航したのは平戸(現在の長崎県平戸市)ではないかと推測している。 しかし、袋中が渡明を企図した頃の国際情勢は、日本人が明に渡るのを容易に許すものではなった。『檀王法林寺 袋中上人 - 琉球と京都の架け橋 -』によれば、豊臣秀吉による文禄元年(1592年)と慶長2年(1597年)の2度に渡る朝鮮出兵のため、李氏朝鮮とそれを支援する明との関係は断絶しており、戦後の講和も遅々として進んでいなかった。また、日本に寄港する明と朝鮮以外の外国船も日本人を恐れて乗船を拒否していたのだと言う。このため袋中は、明へ直接渡るのではなく、琉球へ渡って、そこで船を求めることにする。 袋中が琉球に至った経路について、『袋中上人絵詞伝』には「折節便船ありければ先ず琉球に渡り給ひぬ。呂宋南蛮の商船を賴むといへども彼国の人は日本を東夷なりとをそれてかたく拒みて乗せす。」とあり、琉球までは渡ることができたが、その先の便船は見つけられなかったことを伝えている。これに対し、『飯岡西方寺開山記』には「此年入唐ノ望有テ、郷里ヲ去テ西海道ニ赴キ、商沽便船ヲ伺、漢土ノ著岸ヲ志ザスト雖ドモ、彼国東夷ヲ畏テ、堅ク旅船ヲ入レズ、故呂宋南蛮遠流ヲ凌ギ、風ニ依テ琉球至ルニ、」とあり、一旦はルソン島辺りまで南下したが、その後、琉球まで戻ったと伝えている。『寤寐集』にも「魯宋ニテ着岸ノ時、其国ヨリ海中ノ船ヲ責ト云、又海中ヨリ国ヲ攻ト云テ大ニ乱ス、」と、ルソン着岸時の混乱の様子が書かれており、『琉球神道記 巻末 袋中良定上人伝』および『檀王法林寺 袋中上人 - 琉球と京都の架け橋 -』の両書とも、傍証は無いが袋中はルソンまで渡ったのではないかと考察している。
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