義経伝説・義経=ジンギスカン説の沿革
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文治5 (1189) 義経、平泉衣川の館で自刃 嘉禄3 (1227) チンギス・ハン死去 文永5 (1268) 蝦夷が蜂起、得宗家の代官と推定される安藤五郎が討たれる 文永11(1274) 文永の役 弘安4 (1281) 弘安の役 正慶2 (1333) 鎌倉幕府滅亡 貞治7 (1368) 元 (王朝)滅亡 長禄1 (1457) コシャマインの戦い アイヌが蜂起 文禄2 (1593) 『新羅之記録』蠣崎慶弘東西のアイヌを集め秀吉の命に背けば追伐すると脅す 寛永20(1643) 越前新保の船が韃靼に漂着し、乗組員たち北京から朝鮮を回って帰参す。『韃靼漂流記』後に流布。 寛永1~19(1624年-1643年)の流布本によって義経の蝦夷北行説が本格的に読まれるようになり、浄瑠璃、歌舞伎、狂言、読本などにもさかんに取り入れられていく。 寛文7(1667) 幕府の巡検使の中根宇右衛門らが蝦夷に渡り、アイヌが義経らを祭っていると帰参後幕府に報告する。 寛文9 (1669) シャクシャインの戦い 寛文10(1670) 『続本朝通鑑』林羅山(原田説は林鵞峰)は《義経衣川で死せず、逃れて蝦夷島に至り、その種残す》 と記す。 延宝5 (1677) 『異本義経記』成立。 元禄1(1688) 沢田源内没す 一説には金史別本の作者 元禄7(1694) 水戸光圀、大船・海風丸を建造し蝦夷地調査に赴かせる。 宝永3 (1706) 大阪の竹本座で近松門左衛門の人形浄瑠璃『源義経将棊経(しょうぎきょう)』が上演される。 宝永7(1710) 幕府の巡検使の松宮観山が蝦夷通史の勘右衛門から聞き「義経公お祭り云々」と記す『蝦夷筆談記』 正徳2(1712) 新井白石は『読史余論』で「吾妻鏡の義経自殺説は然るべきとし、義経不死の俗説を記し藤原泰衡献上の義経の首は偽物だ」と記す。 正徳2(1712) 馬場信意の『義経勲功記』が刊行されると広く民衆に読まれる。義経は蝦夷の棟梁になり、シャクシャインは義経の子孫だとした。 享保2 (1717) 加藤謙齋著『鎌倉実記』刊行 付属の『金史別本』が知識人に知られる。 享保5(1720) 新井白石は『蝦夷志』に「俗に尤も神を敬う。しかるに祠壇を設けずその飲食に祭る所の者は、源の廷尉(ていじょう)義経なり」と記す 享保7 (1722) 白石は澹泊に当てた手紙で寛永20年の『韃靼漂流記』から彼らが北京で義経と弁慶のような像の札を見た件で義経は韃靼へ渡ったかと推測。 享保8 (1723) 白石「金史別本」を偽書だと見破り安積澹泊に書簡送る。 宝暦8 (1758) 『和学弁』で篠崎東海は『金史別本』に対し痛烈な批判を行う。 天明3 (1783) 森長見の『国学忘貝』刊行 寛政4(1792) 串原正峯『夷諺俗話』で「夷言にも義経をシヤマイクル、弁慶をヲキクルミなどという」と記す 寛政9 (1797) 橘南谿の『東遊記』で蝦夷のアイヌが「日本の古物、刀剣、鍔の類い甚だ秘蔵して宝物となし得る」と記述 寛政10(1798) 幕臣の近藤重蔵が蝦夷地巡見し平取で義経の遺跡を発見し義経神社を創建する。 文化5(1808) 最上徳内は『渡島筆記』で「義経が巻物を奪ったせいでアイヌは文字を失った」と記す。(「御曹子島渡」は室町時代に伝わる) 嘉永5 (1852) シーボルトが『日本』で義経=ジンギスカン説を展開 明治9 (1876) グリフィスが『ミカドの帝国』を発表。義経=ジンギスカン説が書かれる。 明治12(1879) 末松謙澄がロンドンで「日本の英雄義経は大征服者ジンギスカンと同一人物である」を発表する。 大正12(1923) 小谷部全一郎が『成吉思汗ハ源義経也』を公刊する。
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