義経北行(伝説)始まる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:18 UTC 版)
「義経=ジンギスカン説」の記事における「義経北行(伝説)始まる」の解説
源義経は兄頼朝に追われ、奥州平泉で藤原泰衡らに襲われ自害したことになっていたが、実は生きて蝦夷に落ち延びたとする噂や伝説は江戸時代初期にはあった。寛文7年(1667年)江戸幕府の巡見使一行が蝦夷地を視察しアイヌのオキクルミの祭祀を目撃し、中根宇衛門(幕府小姓組番)は帰府後何度もアイヌ社会ではオキクルミが「判官殿」と呼ばれ、その屋敷が残っていたと証言した。更に奥の地(シベリア、樺太)へ向かったとの伝承もあったと報告する。 蝦夷地には判官殿の屋敷跡が多数残っております。また、さらに、奥の地に行かれたという伝承もございます。(奥には)弁慶岬 なる岬、石狩川なる大河があり、さらに奥には樺太なる島もございます。この島には葦に覆われており、葦の上を渡ってこの地に渡ると伝え聞いております。この所には泥海があり、難破船が多く見られます 松前藩の案内人の報告。 寛文10年(1670年)の林羅山・鵞峰親子が幕命で編纂した「続本朝通鑑」で「俗伝」扱いではあるが、「衣川で義経は死なず脱出して蝦夷へ渡り子孫を残している」と明記し、その後徳川将軍家宣に仕えた儒学者の新井白石が『読史余論』(正徳2年(1712年)成立)で論じ、更に『蝦夷志』でも論じた。徳川光圀の『大日本史』でも注釈の扱いながら泰衡が送った義経の首は偽物で、義経は逃れて蝦夷で神の存在として崇められていると生存説として記録された。 馬場信意の『義経勲功記』が刊行されると広く読まれた。義経蝦夷の棟梁になり、シャクシャインは義経の子孫だとした。
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