最上徳内とは? わかりやすく解説

もがみ‐とくない【最上徳内】

読み方:もがみとくない

[1754〜1836]江戸後期探検家出羽の人。名は常矩(つねのり)。本多利明天文測量などを学び天明5年(1785)幕命による蝦夷(えぞ)地調査随行。のち、択捉(えとろふ)・得撫(ウルップ)・樺太(からふと)などを数次にわたり調査探検。著「蝦夷草紙」「度量衡説統」、シーボルトとの共編アイノ辞典」などがある。


最上徳内

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/14 07:16 UTC 版)

最上 徳内(もがみ とくない、宝暦4年〈1754年〉- 天保7年9月5日1836年10月14日〉)は、江戸時代中期から後期にかけての探検家江戸幕府普請役。出羽国村山郡楯岡村(現在の山形県村山市楯岡)出身。元の姓は高宮(たかみや、略して高〈こう〉とも)。諱は常矩(つねのり)。幼名は元吉。通称は徳内、億内。字は子員。鶯谷、甑山、白虹斎と称していた。父は間兵衛、妻はふで(秀子)、子女はニ男三女。生年は宝暦5年(1755年)との説もある[1]


注釈

  1. ^ 択捉では難破して同島にいたイジュヨゾフら3名のロシア人と会い、それ以前のロシア人の活動状況を得た[2][8]
  2. ^ 蝦夷地開拓に熱心だった勘定奉行松本秀持も、その任を解かれた[8]
  3. ^ 標柱の題字は木村謙次によって書かれた[12]。そこには、最上徳内の名も記されていた[12]
  4. ^ 『蝦夷方言藻汐草』は1792年に刊行された[2]

出典



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