イコトイ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/24 18:01 UTC 版)

イコトイ(生年不詳 ‐ 1820年)は江戸時代中期のアイヌの首長[1]。アッケシ(厚岸)の乙名。漢字表記は「乙箇吐壹(イコトイ)」。
事績
生年不詳。父はアッケシの首長であったカモイボンデン、母はチキリアシカイ(別名はオッケニ)である[2][3]。イコトイはカモイボンデンの死後[3]、アッケシの首長となった[1]。
1773年には、父カモイボンデンの死後に母チキリアシカイの愛人となった[3]クナシリ(国後)の首長ツキノエとともに当時千島列島(北海道アイヌ語: Poromosir[4])を南下していたロシア(北海道アイヌ語: Hure sisam[5]、樺太アイヌ語: Nuca[6])と交易を結んだ[1][7]。
1785年(天明5年)最上徳内は師の本多利明に代わって幕府の蝦夷地探検隊に参加し、山口鉄五郎隊に人夫として加わった。徳内は、青島俊蔵らとともに釧路から厚岸、根室まで探索、東蝦夷地の地理やアイヌの生活・風俗などを調査し、さらに千島列島を探検したが、徳内らを案内して国後島に渡ったのがイコトイであった[8]。徳内はそこで引き返し、松前で越冬したが、翌1786年(天明6年)には単身で再び国後島へ渡り、イコトイらとともに択捉島、得撫島にも渡った[8]。
1789年(寛政元年)にクナシリとメナシのアイヌが蜂起したクナシリ・メナシの戦いの際には、ツキノエやノツカマフ(現在の根室市)のアイヌであるションコ[9]らとともに停戦を仲介した[1]。イコトイ達はアイヌ社会と和人(アイヌ語: Sisam[10])との交易関係を維持する目的で停戦に協力したが、その結果として和人の視点では協力者、アイヌの視点では裏切者というアンビバレントな立場に置かれることになった[11]。
松前藩の家老で、画家としても知られる蠣崎波響が連作肖像画「夷酋列像」12名中の1人に描いた[12]。チキリアシカイ、ツキノエ、ションコも「夷酋列像」に描かれている。
脚注
出典
- ^ a b c d e 「イコトイ」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 。コトバンクより2025年2月8日閲覧。
- ^ “「烈女」と呼ばれたチキリアシカイ(18世紀)”. まなぶんデジタル by 北海道新聞社. 2025年2月8日閲覧。
- ^ a b c 「オツケニ」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 。コトバンクより2025年2月8日閲覧。
- ^ “Poromosir”. 国立アイヌ民族博物館アイヌ語アーカイブ. 2025年2月8日閲覧。
- ^ “Hure sisam”. 国立アイヌ民族博物館アイヌ語アーカイブ. 2025年2月8日閲覧。
- ^ “Nuca”. 国立アイヌ民族博物館アイヌ語アーカイブ. 2025年2月8日閲覧。
- ^ 「ツキノエ」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 。コトバンクより2025年2月8日閲覧。
- ^ a b 賀川(1992)pp.115-120
- ^ 「ションコ」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 。コトバンクより2025年2月8日閲覧。
- ^ “Sisam”. 国立アイヌ民族博物館アイヌ語アーカイブ. 2025年2月8日閲覧。
- ^ “夷酋列像 ─ 蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界 ─”. アイエム[インターネットミュージアム]. 2025年2月8日閲覧。
- ^ “御味方蝦夷之図 イコトイ”. 函館市中央図書館デジタル資料館. 2025年2月8日閲覧。
参考文献
- 賀川隆行『日本の歴史11 崩れゆく鎖国』集英社、1992年7月。ISBN 4-08-195014-8。
- 浪川健治『アイヌ民族の軌跡 (日本史リブレット 50)』山川出版社、2004年9月。 ISBN 978-4634545007。
関連項目
外部リンク
- 世紀の展覧会「夷酋列像」 - 北海道庁のブログ「超!!旬ほっかいどう」
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