レザノフ外交・ゴローニン事件
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「日露関係史」の記事における「レザノフ外交・ゴローニン事件」の解説
「文化露寇」および「ゴローニン事件」も参照 1793年11月、仙台藩の津太夫や善六ら16人乗りの若宮丸が石巻から江戸へ向かう航海の途上に漂流してアリューシャン列島東部のウナラシカ島(英語版)に漂着した。 1799年に松前藩に代わって幕府が蝦夷地の直轄統治を開始し、最上徳内や近藤重蔵に蝦夷地探検を行わせた。 同年に露米会社が勅許を受けてロシア領アメリカが成立した。ニコライ・レザノフは、アラスカの維持に必要な食料調達のために、日本やスペイン領アルタ・カリフォルニアに交渉を開始する。1804年9月にレザノフは日本人漂流者の津太夫らを伴い、長崎に来航した。渡された国書にはロシア語による正文と日本語・満州語による訳文があったが、日本語の訳文は不完全で意味を取ることが難しく、レザノフに同伴してきたドイツ人の博物学教授ラングスドルフがロシア語をオランダ語に翻訳し、それを重訳する形で日本語に直された。同年10月、シトカの戦い。1806年2月、津太夫によって伝えられたロシア事情が『環海異聞』に仙台藩でまとめられた。ロシアの開港要求を幕府が拒絶したため、レザノフは武力による通商開始を上奏していた。 1806年1月26日に江戸幕府は異国船打払令を廃止し薪水給与令(文化の撫恤令)を発布した。しかし、同年9月にレザノフの部下ニコライ・フヴォストフ(ロシア語版)が蝦夷地の日本側拠点である樺太の松前藩の番所を襲撃(フヴォストフ事件)。1807年5月には択捉島駐留の幕府軍を攻撃した(文化露寇)。そのため、江戸幕府は薪水給与令を撤回し、同年12月にはロシア船打払令を発布した。並びに、幕府は幕府軍の増強を謀ったが津軽藩士殉難事件が起こっている。1807年にレザノフが病死し、1808年にロシア軍の暴挙を聞いた皇帝アレクサンドル1世が全軍撤収命令を下し、フヴォストフは処罰された。1808年には松田伝十郎と間宮林蔵がロシア帝国の動向について調査する為に樺太へ渡り、1809年に間宮海峡を沿海州へ渡って黒竜江下流を調査した記録が『東韃地方紀行』にまとめられた。しかし、日露間の緊張関係を背景に、1811年には千島列島を探検中に国後島に上陸したヴァシーリー・ゴロヴニーンが幕吏に捕らえられ、その報復として日本の商人である高田屋嘉兵衛が連れ去られる事件が起こった(ゴローニン事件)。ゴローニン事件解決後の日露関係は落ち着きを取り戻し、1821年蝦夷地は再び松前藩に返還された。 1828年にシーボルトから最上徳内と高橋景保とへ北方の地図や日本の地図と引き換えにクルーゼンシュテルン(レザノフが後援していた)の『世界周航記』が与えられたことが、シーボルトからの手紙を間宮林蔵が上司に提出したことにより発覚し、シーボルト事件が起った。
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