レザノフ外交・ゴローニン事件とは? わかりやすく解説

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レザノフ外交・ゴローニン事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:42 UTC 版)

日露関係史」の記事における「レザノフ外交・ゴローニン事件」の解説

文化露寇」および「ゴローニン事件」も参照 1793年11月仙台藩津太夫善六16乗り若宮丸石巻から江戸へ向かう航海途上漂流してアリューシャン列島東部のウナラシカ島(英語版)に漂着した1799年松前藩に代わって幕府蝦夷地直轄統治開始し最上徳内近藤重蔵蝦夷地探検を行わせた。 同年露米会社勅許受けてロシア領アメリカ成立したニコライ・レザノフは、アラスカ維持必要な食料調達のために、日本スペイン領アルタ・カリフォルニア交渉開始する1804年9月レザノフ日本人漂流者津太夫らを伴い長崎来航した渡され国書にはロシア語による正文日本語満州語による訳文があったが、日本語の訳文は不完全で意味を取ることが難しくレザノフ同伴してきたドイツ人博物学教授ラングスドルフロシア語オランダ語翻訳し、それを重訳する形で日本語直された。同年10月シトカの戦い1806年2月津太夫によって伝えられロシア事情が『環海異聞』に仙台藩でまとめられた。ロシア開港要求幕府拒絶したため、レザノフ武力による通商開始上奏していた。 1806年1月26日江戸幕府異国船打払令廃止し薪水給与令(文化撫恤令)を発布した。しかし、同年9月レザノフ部下ニコライ・フヴォストフ(ロシア語版)が蝦夷地日本拠点である樺太松前藩番所襲撃(フヴォストフ事件)。1807年5月には択捉島駐留幕府軍攻撃した(文化露寇)。そのため、江戸幕府薪水給与令撤回し同年12月にはロシア船打払令を発布した並びに幕府幕府軍増強謀った津軽藩士殉難事件起こっている。1807年レザノフ病死し1808年ロシア軍暴挙聞いた皇帝アレクサンドル1世全軍撤収命令下し、フヴォストフは処罰された。1808年には松田伝十郎間宮林蔵ロシア帝国動向について調査する為に樺太渡り1809年間宮海峡沿海州渡って黒竜江下流調査した記録が『東韃地方紀行』にまとめられた。しかし、日露間の緊張関係を背景に、1811年には千島列島探検中に国後島上陸したヴァシーリー・ゴロヴニーン幕吏捕らえられ、その報復として日本商人である高田屋嘉兵衛連れ去られる事件起こったゴローニン事件)。ゴローニン事件解決後の日露関係落ち着き取り戻し1821年蝦夷地は再び松前藩返還された。 1828年シーボルトから最上徳内高橋景保とへ北方地図日本地図引き換えクルーゼンシュテルンレザノフ後援していた)の『世界周航記』が与えられたことが、シーボルトからの手紙を間宮林蔵上司提出したことにより発覚しシーボルト事件起った

※この「レザノフ外交・ゴローニン事件」の解説は、「日露関係史」の解説の一部です。
「レザノフ外交・ゴローニン事件」を含む「日露関係史」の記事については、「日露関係史」の概要を参照ください。

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