日露関係
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日露関係(にちろかんけい、ロシア語: Российско-японские отношения)では、日本とロシア連邦の両国関係について総合的に述べる。かつてこれらの地域にあった国・王朝を含める。
注釈
出典
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日露関係
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地理的に日本に近いこともあり、日本に関するロシアの関心は高かった。すでに1705年(宝永2年)にはサンクトペテルブルクに日本語学校が設立されている。1771年(明和8年)、ハンガリー人モーリツ・ベニョヴスキーがカムチャッカから脱走して阿波に来航し、オランダ商館長を通じて「ロシアが蝦夷地への攻撃を計画している」との偽情報を伝えた。このためロシアへの警戒感が高まり、1781年(天明元年)ごろ工藤平助が赤蝦夷風説考を著述、これを読んだ老中田沼意次は蝦夷地の探検・開発を進めさせた。またロシアとの交易も考えたが、1786年(天明6年)に失脚し、実現には至らなかった。 日本との交易を求めた最初のロシア人は、ヤクーツクの商人パベル・レベデフ=ラストチキンである。数度の失敗の後、1778年(安永7年)にラストチキンの部下のドミトリー・シャバリンと「シベリア貴族」で日本語学校の生徒であったイワン・アンチーピンが蝦夷厚岸に来航し、松前藩との接触に成功した。一行は翌年にも来航したが、松前藩は翌年に独自の判断で交易を拒否し、幕府へは報告されなかった。寛政4年(1792年)にはアダム・ラクスマンが正式に通商を求めてきた。老中松平定信はロシアとの限定的通商を考慮し、長崎への入港許可証である信牌を交付した。しかしラクスマンは、長崎へは向かわず帰国した。1804年(文化元年)、この信牌を持ったニコライ・レザノフが長崎に来航した。しかしすでに定信は失脚しており、交渉は不成立に終わった。怒ったレザノフは、部下は1807年(文化4年)に蝦夷地を攻撃させ(文化露寇)、日露関係が緊張した。このため、蝦夷地は一時幕府の直轄領となった。その後ロシアの関心が黒海方面に向いたこともあって緊張は緩和され、1821年(文政4年)に蝦夷地は松前藩に戻された。 1853年8月22日(嘉永6年7月18日)、ペリーより約1ヶ月遅れてエフィム・プチャーチンが長崎に来航し、日露和親条約の交渉が始まったが、調印は1855年2月7日(安政元年12月21日)と、後から交渉が始まった日英和親条約より遅れた。これは日露和親条約で日露国境の問題が話し合われたためであるが、樺太の国境に関しては決着せず両国の混在地とされた。その後、1859年8月(安政6年7月)のムラヴィヨフ来航、1862年8月(文久2年7月)の文久遣欧使節ロシア訪問時にも話し合いが持たれたが決着せず、ようやく1867年3月30日(慶応3年2月25日)に日露間樺太島仮規則が仮調印されたが、幕府はこれを批准しなかった。国境問題は、1875年(明治8年)5月7日の樺太・千島交換条約によって一応の決着を見た。 なお、ムラヴィヨフが来航した際に、ロシア海軍の軍人2人が攘夷派武士に殺害されている。これが幕末の最初の外国人殺害事件であるが、ムラヴィヨフは賠償金を請求しなかった。 ロシアは他国と異なり、総領事館を箱館においていたため、日本の内政問題に関わることは殆ど無かった。しかし1861年3月14日(文久元年2月3日)から約半年間、ロシア軍艦ポサードニクが艦艇の修理を名目として対馬芋先を占拠する事件(ロシア軍艦対馬占領事件)がおきている。幕府は単独では対処できず、英国の介入によりロシア軍艦を退去させることとなった。
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