アンチーピン外交
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:42 UTC 版)
1778年にロシアの勅書を携えたイワン・アンチーピンの船が蝦夷地を訪れて直に通商を求めたが、翌1779年に松前藩はそれを拒否した。1781年、仙台藩の藩医工藤平助はロシア研究書である『赤蝦夷風説考』を著述し、北方海防の重要性を世に問うた。当時政治改革を主導していた老中田沼意次も北方に関心を抱き、蝦夷地調査などを開始したが、まもなく田沼は失脚した。
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