村山郡とは? わかりやすく解説

村山郡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/15 06:37 UTC 版)

山形県村山郡の範囲(黄・橙:明治期の郡域 桃・橙:古代から中世にかけての郡域)

村山郡(むらやまぐん)は、山形県出羽国羽前国)にあった平安時代前期に成立したが、中世末期から近世前期にかけて郡域が大きく変更された。明治時代の郡区町村編制法施行に際し、南村山郡東村山郡西村山郡北村山郡の4郡に分割されて消滅。近世以降の郡域は、現在の山形県の村山地方におおむね相当する。

郡域

古代から中世にかけての郡域は、最上郡新庄市寒河江市・村山市・東根市・尾花沢市および西村山郡西川町大江町河北町にあたる。

消滅直前の郡域は、現在の東村山郡西村山郡北村山郡山形市寒河江市村山市天童市東根市尾花沢市および上山市の大部分(中山を除く)、西置賜郡白鷹町の一部(針生)にあたるが、行政区画として画定されたものではない。

歴史

仁和2年11月11日886年12月10日)、当時の最上郡が2郡に分割され、村山郡と最上郡が成立した。和名抄では、長岡郷・村山郷・大倉郷・梁田郷・徳有郷で構成される。長岡郷が寒河江荘に、村山郷が小田島荘になり、残りの地域が公領(尾花沢・新庄地域)となった[1]

太閤検地のころ南北2郡の名称の入れ替えとともに再編が行われ[2]、北部公領域が最上郡、旧最上郡と寒河江荘域・小田島荘域が村山郡となる。正保日本図が作成されたころ、郡境が確定されたとされる[2][3]

元和8年(1622年)に山形藩最上家が改易されて以降、村山郡は幕府領・旗本領・大名領によって細分化されていき、時代が下るとともに「諸大名の石高調整の場」となって領主の変更を繰り返す、領主権の錯綜した地域になっていった[3]。幕府領(天領)統治のために尾花沢陣屋・東根陣屋・漆山陣屋・柴橋陣屋などの代官陣屋が設けられた[3]

郡内では紅花青苧タバコ菜種などの商品作物栽培が盛んとなった[3]。特に紅花は最上川水運を経て酒田から上方に積み出された[3]。商品経済の発展にともなって有力な商人・大地主が出現するとともに、領主による封建的支配の弱さも相まって村落支配者層が結びついて郡中議定を行うなど、経済・社会において東北地方では「極めて特異な先進性」を有する地域となった[3]。村方騒動が頻発し、大規模な一揆も多く発生している[3]

近代以降の沿革

所属町村の変遷は南村山郡#郡発足までの沿革東村山郡#郡発足までの沿革西村山郡#郡発足までの沿革北村山郡#郡発足までの沿革をそれぞれ参照

脚注

  1. ^ 「和名抄」より『中世出羽の領主と城館 奥羽史研究叢書2』p.30
  2. ^ a b 村山郡(古代~中世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年6月3日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g 村山郡(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年6月3日閲覧。
  4. ^ 「旧領旧高取調帳」では天童藩領の全域が天童県の管轄となっており、減封の対象となった村の詳細は不明。
  5. ^ 「旧領旧高取調帳」では佐倉県・館林県・館県・土浦県の管轄となっているが、誤記とみられる。

参考文献

関連項目

先代
最上郡
行政区の変遷
886年 - 1878年
次代
南村山郡東村山郡
西村山郡北村山郡

村山郡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 13:50 UTC 版)

山形城」の記事における「村山郡」の解説

山形市 南楯 山形城南側立地し羽州街道小滝街道分岐する交通の要衝位置する寒河江肥前起居した平城南北50m、東西70m。現在は神明神社境内住宅地となっている。 荒楯 山城南側に立地し南楯の東2km位置した現況は荒稲荷神社住宅農地となっており遺構残っていない。荒地名が残る。 若宮 南楯のすぐ南に位置し須川河岸防備しとみられる東西110m、南北70mの堀が巡らされていた。現在は大型商業施設になっている村木沢山形市村木沢山形城西方白鷹丘陵東麓独立丘陵にある。慶長出羽合戦戦死者の首を洗ったという井戸がある。 台の上 白鷹丘陵東山麓の平城。北には若木城、南に村木沢がある。 若木山形市下若木) 山形城からほぼ真西白鷹丘陵東麓位置する山野辺城の南に位置し当城の南には街道が走る要衝である。天正最上の乱において最上義守側に属し、義光に攻められる門田山形市門田山形城西方白鷹丘陵残丘上に位置し、すぐ横を街道が走る。 長谷堂城 山形城の最も有力な支城一つ関ヶ原の戦いに伴い発生した慶長出羽合戦において、怒涛のごとく攻め寄せる上杉勢によって最上家の城の多くことごとく落城または放棄されたが、その攻撃しのいだ数少ない城の一つである。この「長谷堂城の戦い」は慶長出羽合戦の中で最大激戦であり、当時の守将は志村光安であった谷柏 長谷堂城南西位置する成沢城(鳴沢城) 山形城南方を守る重要な支城一つ最上氏の祖、斯波兼頼の孫、兼義(かねよし)が築城し城主となり、後に成沢氏を称した天正6年1578年)の最上義光上山満兼との松原柏木山合戦の際には山形城の南の守りとなった最上氏改易とともに破却され、本丸跡地は八幡神社及び城址公園となっている。 泉出城 山形市南部須川流入する鳴沢川合流点付近に位置する斯波兼頼の子直家の六男兼義が入封したと伝わる。山城である成沢城の前身考えられる飯田 成沢城の北1.5km位置する慶長出羽合戦では城主飯田播磨守畑谷城救援に赴き戦死した飯塚山形市飯塚山形城の西に位置する200m四方平城山形市沢) 飯塚北方位置する須川須川注ぎ込む川を堀として利用していた。 落合山形市千歳2丁目沖の原) 山形城北方馬見ヶ崎川右岸位置する中野城 山形城北西方を守る重要な支城一つ六十里越街道須川交差する要衝であった中野氏初代最上宗家3代最上満直の子満基であり、代々中野城居住した最上氏伊達氏傀儡となった後に最上宗家継ぎ天文の乱乗じて最上氏中興した最上義守中野氏出自である。最上家改易とともに破却され、現在は小学校及び住宅街となっている。 渋江 中野城北方にあり、須川にそそぐ白川右岸設置された。 風間楯 山城東側の丘陵突端位置し二口峠山寺街道分岐する地点扼した。 中里楯 山形城の北東二口街道面している。東側位置する城としては規模大きい。 楯山柏倉館山柏倉 天童市 天童城 天童市中心部の南にある独立丘陵舞鶴山)のほぼ全体利用した山城南北朝時代南朝北畠氏居城だったとされるが、最上氏圧力により零落するその後成生荘(天童市成生)に本拠構えていた里見氏最上氏から養子を受け天童城入り天童氏称する戦国時代に入ると最上氏同盟関係を結びながらも半ば独立した勢力となり最上八楯形成する。しかし、最上義光攻め落とされ廃城となった。現在舞鶴山公園となっている。 蔵増城 天童城の西方4km位置し最上川との中継地点に当たる。倉津氏治めたが、最上義光に従って恩賞を得、最上小国移った規模東西100間(約200m南北120間(約235m)。 寺津最上川須川合流地点位置し自然地形利用した城。 高擶城 中野城天童城中間位置し最上氏初期における北の重要拠点であった成生 天童城より北西4km位置し鎌倉時代里見氏成生荘を統治するために築城した。里見氏天童城移り天童氏名乗るうになると、配下入った石倉中堀下山口浅岡中島山崎山楯新城山楯高木山辺町 山辺城 山形城西方を守る重要な支城一つ出羽丘陵から山形盆地突き出た舌端上にあり、14世紀には城を中心に栄えていたことがうかがわれる慶長出羽合戦では上杉軍によって落城したが、関ヶ原の戦い後最上義光は四男の山野辺義忠配して治めさせた。その後最上家改易とともに城は破却された。跡地は現在小学校脇の駐車場(旧役場跡地)となっている。 畑谷城 置賜郡と村山郡の境にある山城関ヶ原の戦いに伴い発生した出羽合戦の中の激戦一つ畑谷合戦舞台当時の守将、江口光清最上義光の城を放棄する旨の命令拒否し篭城寡兵よく2日上杉勢足止めしたもの支えきれず落城江口光清自刃した。 高楯城 宝徳年間武田信安築いたといい、後に最上氏縁戚の高遠江守正福が城主となった蟹沢荒谷楯山西光山楯、新 中山町 長崎 長崎中山氏居城寒河江街道経て六十里越へ至る最上川右岸位置する。 谷木沢 長崎支城長崎西方山城である。 上山市 上山城月岡城天文4年上山義忠により築城されたというが、当時縄張り曲輪については不明高楯城 南北朝時代上山満長によって築城された。上山市南西2.3km虚空蔵山築造されている。慶長出羽合戦では里見氏上杉氏猛攻に耐えた。 楢下城 当初伊達氏高畠城支城であったが、後に最上氏支配となった細谷陣山、廻立山 朝日町 八ツ沼城五百川城) 最上川左岸楯山丘陵利用して構築した山城荒砥街道大瀬口、大蕨口、左沢口、朝日軍道交通監視施設として機能した天正12年1584年最上氏侵攻により落城後は最上氏配下入り慶長出羽合戦でも上杉軍攻撃落とされた。 鳥屋森城 八ツ沼城最上川対岸位置する山城貴志(岸)美作守の城であったが、永禄8年最上氏攻撃により落城し、慶長出羽合戦でも上杉軍攻撃落とされた。 真木山城 大江町 左沢楯山城 最上川村山地方に注ぐ出口にあたる高所位置し置賜村山を結ぶ五百川渓谷押さえ要衝であった南北朝時代寒河江氏によって築城されたが、寒河江氏最上氏攻められ滅亡する最上氏支配下となった慶長出羽合戦では上杉軍攻撃落とされた。 寒河江市 寒河江城 山形盆地庄内平野を結ぶ六十里越街道起点にある平城鎌倉時代大江親広が館を建てたのに始まるとされるその後後裔である寒河江氏居城とし、南北朝時代末に本丸を、戦国時代に入ると二の丸三の丸築造した。最上義光により寒河江氏滅ぶ最上義康入り、義康が落命すると最上家親入った。家親が義光の後継として山形城に移ると寒河江肥前守が城主となるが、義光の死後殉死している。最上氏改易とともに破却跡地陣屋置かれた。 白岩城 六十里越街道寒河江川扇状地開口部にあたり重要な拠点であった河北町 谷地城 戦国期中条氏築城したとされるその後中条氏断絶し北方割拠していた白鳥長久進出する白鳥長久現在の山形県河北町中心部とほぼ同じ領域有する城に改修した白鳥長久織田信長と誼を通じるなどし、警戒した最上義光によって暗殺され谷地城程なく最上氏支配下となった慶長出羽合戦では上杉軍下秀久占拠されるが、上杉軍本隊撤退後取り残され下秀久7日間籠城の末降伏し最上氏蔵入り地として城代入った最上氏改易とともに破却溝延城 最上川寒河江川合流地点構築され平城三の丸まで構成される伊達城 東根市 小田島城(東根城) 乱川扇状地北東部白水川日塔川右岸河岸段丘上に位置する平台城。本丸規模東西最大110m、南北47m。二の丸東西140m、南北240m。三の丸東西190m南北300mである。里見民部居城とした。現状小学校公園宅地酒蔵など。 大森城 単独峰大森山にある。 長瀞城 関山休石沼沢要害野川 村山市 楯岡城 鎌倉時代初期築かれた城といわれ、室町期最上氏入城した以後楯岡氏名乗る)。比高あまりないものの、周囲急峻なとなっている場所が多いため、羽前街道要衝を守る堅固な山城として最上氏改易される江戸時代初期まで機能した戦国時代末期最上一族勇将として活躍した楯岡満茂(後に由利本荘移封された後には一時赤尾津氏最終的に本荘氏を名乗る)の居城であった大久保尾花沢市 延沢城 尾花沢盆地ひときわ高い山に位置する山頂主要部配し西麓の狭い谷に城下集落配置した天文16年1547年野辺沢満重が築城し、満延、光昌と続いた天童氏臣従ののち最上氏属し最上氏改易とともに廃城となった

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