村山郡
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村山郡(むらやまぐん)は、山形県(出羽国・羽前国)にあった郡。平安時代前期に成立したが、中世末期から近世前期にかけて郡域が大きく変更された。明治時代の郡区町村編制法施行に際し、南村山郡・東村山郡・西村山郡・北村山郡の4郡に分割されて消滅。近世以降の郡域は、現在の山形県の村山地方におおむね相当する。
郡域
古代から中世にかけての郡域は、最上郡・新庄市・寒河江市・村山市・東根市・尾花沢市および西村山郡西川町・大江町・河北町にあたる。
消滅直前の郡域は、現在の東村山郡・西村山郡・北村山郡・山形市・寒河江市・村山市・天童市・東根市・尾花沢市および上山市の大部分(中山を除く)、西置賜郡白鷹町の一部(針生)にあたるが、行政区画として画定されたものではない。
歴史
仁和2年11月11日(886年12月10日)、当時の最上郡が2郡に分割され、村山郡と最上郡が成立した。和名抄では、長岡郷・村山郷・大倉郷・梁田郷・徳有郷で構成される。長岡郷が寒河江荘に、村山郷が小田島荘になり、残りの地域が公領(尾花沢・新庄地域)となった[1]。
太閤検地のころ南北2郡の名称の入れ替えとともに再編が行われ[2]、北部公領域が最上郡、旧最上郡と寒河江荘域・小田島荘域が村山郡となる。正保日本図が作成されたころ、郡境が確定されたとされる[2][3]。
元和8年(1622年)に山形藩最上家が改易されて以降、村山郡は幕府領・旗本領・大名領によって細分化されていき、時代が下るとともに「諸大名の石高調整の場」となって領主の変更を繰り返す、領主権の錯綜した地域になっていった[3]。幕府領(天領)統治のために尾花沢陣屋・東根陣屋・漆山陣屋・柴橋陣屋などの代官陣屋が設けられた[3]。
郡内では紅花・青苧・タバコ・菜種などの商品作物栽培が盛んとなった[3]。特に紅花は最上川水運を経て酒田から上方に積み出された[3]。商品経済の発展にともなって有力な商人・大地主が出現するとともに、領主による封建的支配の弱さも相まって村落支配者層が結びついて郡中議定を行うなど、経済・社会において東北地方では「極めて特異な先進性」を有する地域となった[3]。村方騒動が頻発し、大規模な一揆も多く発生している[3]。
近代以降の沿革
- 所属町村の変遷は南村山郡#郡発足までの沿革、東村山郡#郡発足までの沿革、西村山郡#郡発足までの沿革、北村山郡#郡発足までの沿革をそれぞれ参照
- 幕末時点では出羽国に所属した。「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。幕府領は長岡代官所が管轄。下記のほか寺社領が存在。国名のあるものは飛地領。(8町421村)
- 慶応2年6月19日(1866年7月30日) - 棚倉藩が武蔵川越藩に転封。棚倉藩には陸奥白河藩が転封。
- 慶応4年
- 明治元年
- 明治2年
- 明治3年
- 明治4年
- 明治11年(1878年)11月1日 - 郡区町村編制法の山形県での施行により、村山郡のうち山形ほか2町83村に南村山郡が、天童村ほか1町97村に東村山郡が、楯南村ほか118村に西村山郡が、楯岡村ほか2町105村に北村山郡が、それぞれ行政区画として発足。同日村山郡消滅。
脚注
参考文献
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 6 山形県、角川書店、1981年12月1日。ISBN 4040010604。
- 旧高旧領取調帳データベース
- 高志書院 伊藤清郎・山口博之著 『中世出羽の領主と城館 奥羽史研究叢書2』、2002
関連項目
先代 最上郡 |
行政区の変遷 886年 - 1878年 |
次代 南村山郡・東村山郡・ 西村山郡・北村山郡 |
村山郡
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山形市 南楯 山形城南側に立地し、羽州街道と小滝街道が分岐する交通の要衝に位置する。寒河江肥前が起居した平城。南北50m、東西70m。現在は神明神社境内や住宅地となっている。 荒楯 山形城南側に立地し南楯の東2kmに位置した。現況は荒楯稲荷神社、住宅、農地となっており遺構は残っていない。荒楯の地名が残る。 若宮楯 南楯のすぐ南に位置し、須川の河岸を防備したとみられる。東西110m、南北70mの堀が巡らされていた。現在は大型商業施設になっている。 村木沢楯(山形市村木沢) 山形城西方白鷹丘陵の東麓の独立丘陵にある。慶長出羽合戦で戦死者の首を洗ったという井戸がある。 台の上楯 白鷹丘陵の東山麓の平城。北には若木城、南に村木沢楯がある。 若木楯(山形市下若木) 山形城からほぼ真西の白鷹丘陵東麓に位置する。山野辺城の南に位置し、当城の南には狐越街道が走る要衝である。天正最上の乱において最上義守側に属し、義光に攻められる。 門田楯(山形市門田) 山形城西方白鷹丘陵の残丘上に位置し、すぐ横を狐越街道が走る。 長谷堂城 山形城の最も有力な支城の一つ。関ヶ原の戦いに伴い発生した慶長出羽合戦において、怒涛のごとく攻め寄せる上杉勢によって最上家の城の多くはことごとく落城または放棄されたが、その攻撃をしのいだ数少ない城の一つである。この「長谷堂城の戦い」は慶長出羽合戦の中で最大の激戦であり、当時の守将は志村光安であった。 谷柏楯 長谷堂城の南西に位置する。 成沢城(鳴沢城) 山形城の南方を守る重要な支城の一つ。最上氏の祖、斯波兼頼の孫、兼義(かねよし)が築城し城主となり、後に成沢氏を称した。天正6年(1578年)の最上義光と上山満兼との松原柏木山の合戦の際には山形城の南の守りとなった。最上氏改易とともに破却され、本丸跡地は八幡神社及び城址公園となっている。 泉出城 山形市南部、須川に流入する鳴沢川の合流点付近に位置する。斯波兼頼の子直家の六男兼義が入封したと伝わる。山城である成沢城の前身と考えられる。 飯田楯 成沢城の北1.5kmに位置する。慶長出羽合戦では城主飯田播磨守が畑谷城救援に赴き戦死した。 飯塚楯(山形市飯塚) 山形城の西に位置する200m四方の平城。 椹沢楯(山形市椹沢) 飯塚楯の北方に位置する楯。須川と須川に注ぎ込む川を堀として利用していた。 落合楯(山形市千歳2丁目沖の原) 山形城北方馬見ヶ崎川右岸に位置する。 中野城 山形城の北西方を守る重要な支城の一つ。六十里越街道と須川の交差する要衝であった。中野氏初代は最上宗家3代最上満直の子満基であり、代々中野城に居住した。最上氏が伊達氏の傀儡となった後に最上宗家を継ぎ、天文の乱に乗じて最上氏を中興した最上義守は中野氏の出自である。最上家改易とともに破却され、現在は小学校及び住宅街となっている。 渋江楯 中野城の北方にあり、須川にそそぐ白川右岸に設置された。 風間楯 山形城東側の丘陵突端に位置し、二口峠と山寺街道が分岐する地点を扼した。 中里楯 山形城の北東、二口街道に面している。東側に位置する城としては規模が大きい。 楯山楯、柏倉館山楯、柏倉楯 天童市 天童城 天童市中心部の南にある独立丘陵(舞鶴山)のほぼ全体を利用した山城。南北朝時代に南朝北畠氏の居城だったとされるが、最上氏の圧力により零落する。その後、成生荘(天童市成生)に本拠を構えていた里見氏が最上氏から養子を受け天童城に入り天童氏を称する。戦国時代に入ると最上氏と同盟関係を結びながらも半ば独立した勢力となり最上八楯を形成する。しかし、最上義光に攻め落とされ廃城となった。現在舞鶴山公園となっている。 蔵増城 天童城の西方4kmに位置し最上川との中継地点に当たる。倉津氏が治めたが、最上義光に従って恩賞を得、最上小国へ移った。規模は東西100間(約200m)南北120間(約235m)。 寺津城 最上川と須川の合流地点に位置し、自然地形を利用した城。 高擶城 中野城と天童城の中間に位置し、最上氏初期における北の重要拠点であった。 成生楯 天童城より北西へ4kmに位置し、鎌倉時代里見氏が成生荘を統治するために築城した。里見氏が天童城に移り天童氏を名乗るようになると、配下が入った。 石倉楯、中堀楯、下山口楯、浅岡楯、中島楯、山崎山楯、新城山楯、高木楯、 山辺町 山辺城 山形城の西方を守る重要な支城の一つ。出羽丘陵から山形盆地に突き出た舌端上にあり、14世紀には城を中心に栄えていたことがうかがわれる。慶長出羽合戦では上杉軍によって落城したが、関ヶ原の戦い後、最上義光は四男の山野辺義忠を配して治めさせた。その後の最上家改易とともに城は破却された。跡地は現在小学校脇の駐車場(旧役場跡地)となっている。 畑谷城 置賜郡と村山郡の境にある山城。関ヶ原の戦いに伴い発生した出羽合戦の中の激戦の一つ、畑谷合戦の舞台。当時の守将、江口光清は最上義光の城を放棄する旨の命令を拒否し篭城。寡兵よく2日も上杉勢を足止めしたものの支えきれず落城。江口光清は自刃した。 高楯城 宝徳年間武田信安が築いたといい、後に最上氏の縁戚の高楯遠江守正福が城主となった。 蟹沢楯、荒谷楯、楯山楯、梁沢楯、西光山楯、新楯 中山町 長崎楯 長崎中山氏の居城で寒河江街道を経て六十里越へ至る最上川右岸に位置する。 谷木沢楯 長崎楯の支城。長崎楯西方の山城である。 上山市 上山城(月岡城) 天文4年、上山義忠により築城されたというが、当時の縄張りや曲輪については不明。 高楯城 南北朝時代、上山満長によって築城された。上山市の南西2.3km虚空蔵山に築造されている。慶長出羽合戦では里見氏が上杉氏の猛攻に耐えた。 楢下城 当初伊達氏高畠城の支城であったが、後に最上氏の支配となった。 細谷楯、陣山楯、廻楯、立山楯 朝日町 八ツ沼城(五百川城) 最上川左岸楯山の丘陵を利用して構築した山城。荒砥街道の大瀬口、大蕨口、左沢口、朝日軍道の交通監視施設として機能した。天正12年(1584年)最上氏の侵攻により落城後は最上氏の配下に入り、慶長出羽合戦でも上杉軍の攻撃で落とされた。 鳥屋ヵ森城 八ツ沼城の最上川対岸に位置する山城。貴志(岸)美作守の城であったが、永禄8年最上氏の攻撃により落城し、慶長出羽合戦でも上杉軍の攻撃で落とされた。 真木山城 大江町 左沢楯山城 最上川が村山地方に注ぐ出口にあたる高所に位置し、置賜と村山を結ぶ五百川渓谷を押さえる要衝であった。南北朝時代に寒河江氏によって築城されたが、寒河江氏が最上氏に攻められ滅亡すると最上氏の支配下となった。慶長出羽合戦では上杉軍の攻撃で落とされた。 寒河江市 寒河江城 山形盆地と庄内平野を結ぶ六十里越街道の起点にある平城。鎌倉時代に大江親広が館を建てたのに始まるとされる。その後、後裔である寒河江氏が居城とし、南北朝時代末に本丸を、戦国時代に入ると二の丸・三の丸を築造した。最上義光により寒河江氏が滅ぶと最上義康が入り、義康が落命すると最上家親が入った。家親が義光の後継として山形城に移ると寒河江肥前守が城主となるが、義光の死後、殉死している。最上氏改易とともに破却。跡地に陣屋が置かれた。 白岩城 六十里越街道と寒河江川扇状地の開口部にあたり重要な拠点であった。 河北町 谷地城 戦国期に中条氏が築城したとされる。その後、中条氏が断絶し北方に割拠していた白鳥長久が進出する。白鳥長久は現在の山形県河北町の中心部とほぼ同じ領域を有する城に改修した。白鳥長久は織田信長と誼を通じるなどし、警戒した最上義光によって暗殺され、谷地城も程なく最上氏の支配下となった。慶長出羽合戦では上杉軍の下秀久に占拠されるが、上杉軍本隊撤退後取り残された下秀久は7日間の籠城の末降伏し、最上氏蔵入り地として城代が入った。最上氏改易とともに破却。 溝延城 最上川と寒河江川の合流地点に構築された平城で三の丸まで構成される。 伊達城 東根市 小田島城(東根城) 乱川扇状地の北東部、白水川・日塔川の右岸、河岸段丘上に位置する平台城。本丸の規模は東西最大110m、南北47m。二の丸は東西140m、南北240m。三の丸は東西190m、南北300mである。里見民部が居城とした。現状は小学校、公園、宅地、酒蔵など。 大森城 単独峰大森山にある。 長瀞城 関山休石楯、沼沢要害楯、楯畑楯、野川楯 村山市 楯岡城 鎌倉時代初期に築かれた城といわれ、室町期に最上氏が入城した(以後、楯岡氏と名乗る)。比高はあまりないものの、周囲が急峻な崖となっている場所が多いため、羽前街道の要衝を守る堅固な山城として最上氏が改易される江戸時代初期まで機能した。戦国時代末期に最上一族の勇将として活躍した楯岡満茂(後に由利本荘に移封された後には一時赤尾津氏、最終的には本荘氏を名乗る)の居城であった。 大久保城 尾花沢市 延沢城 尾花沢盆地のひときわ高い霧山に位置する。山頂に主要部を配し、西麓の狭い谷に城下集落を配置した。天文16年(1547年)野辺沢満重が築城し、満延、光昌と続いた。天童氏に臣従ののち最上氏に属し、最上氏の改易とともに廃城となった。
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