楢下城(平林館)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 01:18 UTC 版)
戦国期には、須川と金山川の合流点に向けて南東から伸びる段丘の先端の位置に楢下城(平林館)があったとされている。平林館は最上四八館の最南端に位置し、城の要所に幅三間、深さ二間ほどの外堀が備えられていて、山形の最上家家臣の楢下駿河守貞光、長沼信濃守の名前が残っている。楢下城(平林館)は後述するように、伊達と最上の戦いにおいて重要な役割を果たしていた。1514年(永正11年)、伊達政宗の高叔父にあたる高畑城主伊達稙宗の武将小梁川貞範と長沼信濃守による届橋(現在の十月橋)の戦いでは、信濃守が貞範を敗った。その際、部落は戦火にあい女子供は屋敷穴沢に避難。織田信長の時代になった後、流町に移住した。届橋の戦いの後も伊達軍が再度攻め入り、貞範は信濃守を懐柔し味方につけて、宮脇八幡神社を焼き払いその勢いで高楯城(虚空蔵山)陥落させた。城主であった上山義房は山形方面に敗走した。その後、貞範領主であった約11年間、厳しい課税により領民は苦しい生活を強いられた。しかし、1535年(天文4年)に義房の子義忠により貞範は滅ぼされた。また、同年に義忠は天神森に月岡城を築いた。尚、高楯城陥落の年については1508年(永正5年)説と1521年(大永元年)説がある。また、小梁川貞範の出生年月に関しても正確な年代は特定されておらず届橋の戦いがあった1514年(永正11年)には生まれていないという説もある。
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