楢下宿駅の主な旧家
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秋田屋(仮本陣・脇本陣) 久保田(秋田)藩の佐竹候の定宿で元々下町に居住していた。そのため、佐竹候の宿札が保存されている。他にも巡見使宿泊や庄屋を務めた記録が残っている。 古川屋・庄内屋(仮本陣・脇本陣) 元徳川四天王の1人、鶴岡藩の酒井候の定宿。殿様が使用したとされる唐金の煙草盆2組や酒井候の宿札が保存されており、旧家屋は市の文化財に選出されている。これは1750年(寛延3年)ごろに建てられたと思われ、楢下地内で一番古い建屋。 宮地屋(脇本陣) 1661年(元禄元年)以前からある酒造家。楢下より須川の対岸にある宮川の水で作った宮川銘酒を醸造しており宮川から水を肩に担ぎ下町の坂を運んでいたとされ、1661年(寛文元年)に上町に移ったと記録がある。また、庄屋・大庄屋を務めたとの記録が多く残っている。1838年(天保9年)4月3日に起きた皆沢で火事により被害を受けた8軒に米1俵ずつ見舞いをしたとの記録も残されている。 滝沢屋(脇本陣) 宮地屋と同様、元禄以前からある酒造家。滝沢川の水で作った銘酒を醸造しており、その看板の下書き2枚が表具して保存されている。他にも大名・巡見使の宿札も保存されている。家の玄関にある開門(ひらきもん)は殿様から許可され造った門とされている。また、当家の家紋「並び瓶子」は殿様から直に頂いた門との伝聞がある。1757年(宝暦7年)の大洪水の際、流失したものの重要性から再建されたとされている。 大場小次郎(大馬喰) 近郷にも名が知れた大馬喰(牛や馬の仲買商人)で名字と帯刀が認められたいた。1857年(安政4年)には佐藤幸作の屋敷内に馬頭観世音塔を建立。これは楢下の近郷では珍しかった。 鈴木嘉加 石田三成の家臣鈴木嘉加(鈴木嘉内の祖先)が関ヶ原の戦いに敗れて敗走。楢下に流れ着き大農として土着した。1661年(寛文元年)以降は問屋や脇本陣、庄屋を務めた。また巡見使が宿泊したとの記録も残っている。問屋は全ての荷物を宿駅から宿駅へ取り次ぐ重要な役割を担っていたため、常に人馬を備える必要があった。そのため、楢下の人馬のみでは賄いきれなく助郷制を利用し、本庄郷・西郷・牧之郷・生居郷の17ヶ村と助郷関係があった。当家の表の柱に馬を繋いでいた金輪や楢下宿駅人馬車継立所の看板が残っている。昔、橋掛替えの際は当時の当主鈴木嘉平が功績を残したとし、その功績を讃えて須川に架かる橋に嘉平橋と名付けられた。
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