天童氏
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天童氏(てんどうし)は、出羽の有力国人。天童城(現在の山形県天童市)を本拠とした。もともとは清和源氏新田氏流里見氏の流れを汲む家系であったが、南北朝時代に足利氏流斯波氏一門の最上氏から養子を迎え、里見の家系を継承しながら、足利氏、斯波氏の流れを汲む存在となった。戦国時代末期には村山地方北部に一大勢力を築いた。通字は「頼」だが、初期には里見氏と同じく「義」の字を使用した。
天童氏
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詳細は「天童氏」を参照 南北朝時代、成生庄を拠点とした出羽里見家の第5代当主里見義景は子がなく、同じ源義国の家系である足利氏の一門斯波家兼の三男・義宗を養子とした。里見義宗は家督を継ぐと天童氏と称した。義宗の後には、斯波氏の支族である最上氏から最上直家の子・頼直が入っている(頼直は斯波家兼の二男である最上兼頼の孫で、義宗の大甥にあたる)。新田系の家系ながら足利系の血をひくこととなった天童氏は、里見氏の一門を家臣団として編成して勢力を拡大するとともに、上山氏・東根氏・鷹巣氏という庶流を領内各地に移住させて支配権を確立していった。 南北朝時代から室町時代にかけて、出羽国南部では最上氏が国人を統合し支配圏を固めており、一族が養子入りした天童氏に対しても従属化を求めるようになる。しかし、天童氏は斯波氏から養子をとっただけで家系は新田氏の一門であることから一定の独立を維持してきた。天童氏は延沢・飯田・尾花沢・楯岡・長瀞・六田・成生家らとともに最上八楯を形成し、最上氏や出羽に侵攻をたくらむ伊達氏と対抗していった。 天正5年(1577年)、最上義光は天童氏第16代当主天童頼貞との講和を結び、頼貞の娘(天童御前)を側室に迎えたが、その後も最上氏と天童氏一族や最上八楯の争いは続いた。天正12年(1584年)、第17代当主天童頼澄のときに天童城は落城。天童氏・出羽里見氏の一門や家臣団は最上家に吸収され、最上家の勢力拡大に貢献してゆくことになる。 最上家に仕えた里見氏の人物として、里見民部がいる。上山城主上山満兼(里見満兼)の一族で重臣であった民部は、天正10年(1582年)に最上方に転じ、主君を討って上山城主となった。民部は義光の子・最上義康を讒言(ざんげん)してお家騒動(最上騒動)の一因をつくり、粛清されたという。
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