村山連立政権と政構研の解体
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「政権構想研究会」の記事における「村山連立政権と政構研の解体」の解説
新党さきがけとともに野党に転じた社会党に目を付けた自民党は、政権復帰のために自社さ共同政権構想を提案し、なおかつ村山を内閣総理大臣に指名するという奇策を打ち出した。村山はこれを飲み、1994年6月に村山連立内閣が発足した。首相を出した社会党は連立政権との政策の整合性を強く問われる事になり、村山は施政方針演説で自衛隊合憲や日米安保体制の堅持を表明した。これで社会党の路線転換は完了したが、新路線そのものに反対する協会系グループとともに、自民党との連立を拒絶して再び非自民連立政権を目指そうとする政構研内の動きも続いた。 1996年1月に村山が退陣して自民党の橋本龍太郎へ政権を譲り、社会党が社会民主党(社民党)と改名して再出発をしても、党内の対立は収まらなかった。同年9月、衆議院選挙を前に、新党さきがけの鳩山由紀夫が提唱したリベラル新党、民主党に久保や佐藤が参加し、政構研の非自民連立派は民主党に移った。一方、残された社民党は村山から党首を引き継いだ土井が自衛隊違憲論の再提起などでかつての左派的な主張を進め、村山や山口が議員を引退したため、政構研の影響力は失われた。
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