村山談話成立の経緯
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1994年6月30日、自らの意に反して思いがけず自民党・社会党・新党さきがけの三党連立政権の首相に指名された村山は「衆議院で僅か70議席程度しか持っていない社会党の委員長が総理に選ばれたことは憲政の常道から考えてあり得ないことだが、こうした内閣が生まれてきたことには何らかの必然性があり歴史的な役割が課せられているのではないか。ちょうど戦後50年の節目であり自民党政権では解決できなかった過去の戦争の歴史認識問題など内外の諸課題にけじめを付ける」と決意して新政権樹立の三党合意事項に「過去の戦争を反省する決議を行う」との内容を盛り込み「50年問題プロジェクト」を立ち上げた。 首相就任後、ASEAN諸国を歴訪した村山は「アジア各国は日本に対して表向きは良い顔をするが、実際は経済大国になった国は再び軍事大国になるのではないか、日本は過去の戦争の後始末を付けていないではないか、また過ちを繰り返さなければいいが、という疑念を言外に感じた」と述べる。 1995年6月9日、衆議院本会議で過去の日本が行った侵略と植民地支配を謝罪する「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」が採決されるが自民党議員からも多数の欠席者が出て全会一致で可決できなかったことを受け村山は談話の作成を決心する。 五十嵐広三官房長官を中心に複数の学者などが、村山が過去の演説で発言した内容などを盛り込んだ形で談話の文案を作成した。村山は談話の文章が完成後、日本遺族会会長の橋本龍太郎通産大臣に根回しの意味で談話の文章を見せると、橋本が「文章の中で終戦と敗戦を使われているが敗戦で統一した方が良いのではないか」と指摘し村山も賛成する。 戦後50年目の終戦記念日である1995年8月15日、村山は「社会党の委員長が総理になった以上この程度の談話が出せなければ意味がない」と異議が出るなら首相辞任を暗に匂わせる形で談話の閣議決定に臨み、内閣改造で新しい官房長官に就任した野坂浩賢も談話に異議を唱える閣僚がいれば即座に罷免する覚悟であった。閣議で古川貞二郎官房副長官が談話を読み上げ、野坂が「異議ありませんか」と言うと、タカ派と言われる江藤隆美総務庁長官、平沼赳夫運輸大臣、島村宜伸文部大臣を含む全閣僚(村山改造内閣)が一言も異議を唱えず談話に署名して満場一致で閣議決定され、村山談話を発表した。
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