松本秀持とは? わかりやすく解説

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松本秀持

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/28 08:34 UTC 版)

 
松本秀持
時代 江戸時代中期
生誕 享保15年(1730年
死没 寛政9年6月5日1797年6月29日
別名 弥八郎、次郎左衛門、十郎兵衛
戒名 日旃
墓所 幸龍寺
官位 従五位伊豆守兵庫頭
幕府 江戸幕府 勘定組頭勘定吟味役勘定奉行
主君 徳川氏家治
氏族 満快信濃源氏松本氏
父母 父:松本忠重、母:池田氏
山本徳右衛門の娘
女子、鉄次郎、震太郎、高之丞、女子、女子、式穀、栄助、池田富一、女子、女子、米吉、女子
養子:文道
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松本 秀持(まつもと ひでもち)は、江戸時代中期の幕臣通称は十郎兵衛。伊豆守。代々天守番を務める身分の低い家柄であったが、勘定奉行にまで昇進した。

経歴

信濃源氏の一族を称し、中世末期は成田氏に仕えた後、徳川氏に仕えてからは代々御家人に列した家柄という。田沼意次に才を認められ、天守番より勘定方に抜擢され、廩米100俵5口を受けた。明和3年(1766年)に勘定組頭となり、のちに勘定吟味役となり、安永8年(1779年勘定奉行に就任して500石の知行を受けた。天明2年(1782年)より田安家家老を兼帯した。下総国印旛沼および手賀沼干拓などの事業や天明期の経済政策を行った。

田沼意次に仙台藩医工藤平助の『赤蝦夷風説考』を添えて蝦夷地調査について上申した。田沼は工藤の献策を受け入れて彼に蝦夷地の調査を命じた[1]。秀持は『東遊記』の著者である平秩東作よりアイヌの人びとの風俗や蝦夷地の産物等について情報を得て、1784年10月、蝦夷地実地踏査に踏み切り、2度の調査隊を派遣した[1][注釈 1]。調査隊には最上徳内が含まれていた[1]

そして、蝦夷地の開発に乗り出そうとしたが、天明6年(1786年)の田沼意次の失脚により頓挫してしまう。また、同年閏10月5日、田沼失脚にからみ小普請に落とされ、逼塞となった。さらに越後買米事件の責を負わされ、知行地を減知の上、再び逼塞となった。天明8年(1788年)5月に赦され、寛政9年(1797年)に68歳で没した。墓所は世田谷区北烏山5丁目の幸龍寺。

関連人物

関連作品

テレビドラマ

脚注

注釈

  1. ^ 文人で戯作者でもある平秩東作は、1783年から翌年まで江差に逗留して蝦夷地のようすを見聞していた[1]

出典

参考文献




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