『赤蝦夷風説考』の執筆
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工藤平助の名は、すぐれた医師として、また、その広い視野や高い見識で全国的に知られるようになり、かれの私塾「晩功堂」には遠く長崎や松前からも門人となるため来訪する者も少なくなかった。18世紀後期にはロシア帝国の南下が進み、ロシア軍の捕虜となった経験をもつハンガリーのモーリツ・ベニョヴスキー伯爵が在日オランダ人にあてた書簡のなかで、ロシアには侵略の意図があると記したことをきっかけとして北方問題への関心が高まっていた。松前からも裁判のため、知恵者として知られていた平助の力を借りようと頼る者もあらわれ、平助は、彼らから北方事情や蝦夷地での交易の様子、ロシア情勢等について詳細に知ることができた。また、長崎の吉雄耕牛やその縁者からは、オランダの文物が送り届けられることも多く、平助はそれを蘭癖大名や富裕な商人に販売して財をなした一方、ロシアも含めた西洋事情一般にも通じるようになった。なお、オランダ渡りの品々の様子は娘あや子(只野真葛)『むかしばなし』に克明に描かれている。 天明元年(1781年)4月、平助は『赤蝦夷風説考』下巻を、天明3年(1783年)には同上巻を含めてすべて完成させた。「赤蝦夷」とは当時のロシアを指す呼称であり、ロシアの南下を警告し、開港交易と蝦夷地経営を説いた著作であった。また、天明3年には密貿易を防ぐ方策を説いた『報国以言』を提出している。これらの情報は、松前藩藩士・前田玄丹、松前藩勘定奉行・湊源左衛門、長崎通詞・吉雄耕牛らより集めたものであった。さらに平助は、『ゼヲガラヒ(万国地理誌)』や『ベシケレーヒンギ・ハン・リュスランド(ロシア誌)』などの外国書を入手して、知識の充実に努めた。 『赤蝦夷風説考』は、のちに田沼意次に献上されることとなるが、これは平助が自ら進んで献上したものではなかった。『むかしばなし』によれば、工藤家に出入りするなかに田沼の用人がいて、あるとき 我が主君は富にも禄にも官位にも不足なし。この上の願いには田沼老中の時、仕おきたることとて、長き世に人のためになることをしおきたき願いなり、何わざをしたらよからんか。意味:じぶんの主人は、富でも禄高でも官位でも不足はない。この上の願いとしては、田沼老中の時代にしたこととして、永くのちの世の人のためになることをしておきたいという願いがある。どのような仕事をしたらよいだろうか。 と平助の知恵を借りにきたので、平助は「そもそも蝦夷国は松前から地続きで日本へも随ってくる国である。これを開発して貢租を取る工面をしたなら、日本国を広げたのは田沼様だといい、人びとも御尊敬申し上げるだろう」と答えたという。 天明4年(1784年)には、平助は江戸幕府勘定奉行・松本秀持に対して『赤蝦夷風説考』の内容を詳しく説明し、松本はこれをもとに蝦夷地調査の伺書を幕府に提出した。これがときの老中・田沼意次の目にとまり、そのため、天明5年(1785年)には、第一次蝦夷地調査隊が派遣され、随行員として最上徳内らも加わっていた。このころ、平助はいずれ幕府の直臣となって蝦夷奉行として抜擢されるという噂が流れた。しかし、一面では医師廃業と周囲に見なされて患者を失い、しだいに経済的に苦境に陥っていたのが実情であった。なお、寛政3年(1791年)全巻刊行された林子平の海防論『海国兵談』は、『赤蝦夷風説考』の情報に多くを依拠している。それに先立つ天明6年(1786年)、平助は『海国兵談』の序を書いている。これについては、当初、平助は拒否していたが子平の熱意によりついに承諾したものという。
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