刊行の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 00:46 UTC 版)
当時、江戸幕府で政治改革の主導権を握っていた老中田沼意次も、蝦夷地経略に関心を寄せており、ロシア人南下の脅威に早急に備える必要性を認識していた。そこで工藤平助は、なんとか自著を田沼の目に留めようと、田沼の用人三浦庄司を介して上申を試みる。その甲斐あって天明4年5月16日(1784年7月3日)、勘定奉行松本秀持が田沼に提出した蝦夷地調査に関する伺書に、本書が添付された。伺書は本書を引用しながら、蝦夷地の肥沃な大地や豊富な産物、地理的重要性を強調し、幕府主導による防備・開発を進言している。それを受けた田沼がさっそく翌5年、幕府主導の下に全蝦夷地沿海への探索隊を派遣するに至って、平助の宿願は結実する。しかし、翌天明6年(1786年)の田沼の失脚により、この探索隊は中途で断絶してしまった。 田沼政権の後を執った松平定信は、文化5年(1808年)に先年に起きたロシアとの紛争に触発され、ロシアについて学習する必要性を説いた『秘録大要』という少文を著したが、付属したロシア学習のために読むべき書誌リスト「集書披閲」の中で『加摸西葛杜加国風説考』は桂川甫周の『魯西亜誌』に次ぐ3番目の位置に掲載されており、本書を軍書(軍事資料)として評価したことが付言されている。 いっぽう、本書に影響されて蝦夷地やロシアに対する関心が高まりを見せ、平助と同じ仙台藩医・林子平が『海国兵談』を著し、平助が序文を寄せている。
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