刊行に至る経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 08:49 UTC 版)
1909年3月に朝日新聞社に校正係として入社した啄木は、同年秋から『二葉亭全集』の校正を担当した。これは東京朝日新聞主筆の池辺三山が割り振ったものだった。池辺とともに社会部長の渋川柳次郎(玄耳)も啄木の文才を買っていた。 渋川は1910年4月2日、啄木が前月紙面に載せた短歌を評価し「出来るだけの便宜を与えるから、自己発展をやる手段を考えて来てくれ」と告げる。これに発奮した啄木は歌集の出版を企図して4月4日から11日までの間に自作の255首を編纂して『仕事の後』の題を付け、12日に春陽堂に持ち込んだが、稿料15円の要求が入れられずに実現しなかった。 9月に朝日歌壇が設けられると渋川は啄木を選者に抜擢した。この頃妻・節子が妊娠して出産のため大学病院に入院しており、啄木はその費用を得る目的で歌集出版に再度挑み、短歌を寄稿していた雑誌『創作』の版元だった東雲堂書店に出版を依頼したところ応諾され、10月4日に出版契約を結んだ。同日、長男・真一が誕生した。 東雲堂書店に持ち込んだ時点でも歌集の題は『仕事の後』で、掲載は約400首、記述は一行書きだった。この原稿に対して、10月9日までの間に歌を加除(30-40首を削除、70-80首を追加)した上で、三行分かち書きに書き換えて220ページに再編集し、題を『一握の砂』に変更した。『一握の砂』としての原稿を東雲堂書店に渡した後も歌を追加し、10月22日の友人宛書簡に「五百四十三首、二百八十六頁」と記した。直後の10月27日に真一が生後23日で死去。これを悼む歌8首を最後に追加して、12月1日に刊行された。
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