池辺三山とは? わかりやすく解説

いけべ‐さんざん【池辺三山】

読み方:いけべさんざん

[1864〜1912]新聞記者熊本生まれ本名、吉太郎。「東京朝日新聞主筆として活躍


池辺三山


池辺三山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/30 14:37 UTC 版)

池辺 吉太郎
肖像写真
生誕 1864年3月12日文久4年2月5日
肥後国
死没 1912年明治45年)2月28日(47歳)
出身校 慶應義塾
職業 ジャーナリスト
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池辺 三山(いけべ さんざん、1864年3月12日文久4年2月5日[1]- 1912年明治45年)2月28日)は、明治期日本ジャーナリスト。本名は吉太郎[1]任道重遠、別鉄崑崙無字庵主人木生など。日本のジャーナリストの先駆けと言われ、陸羯南徳富蘇峰とともに明治の三大記者とも称された。

人物・生涯

肥後国熊本(現熊本県熊本市)生まれ[1]。父池辺吉十郎、母世喜の長男として生まれる[2]。池辺家は禄二百石の熊本藩士で代々学者の家系だった。1872年(明治5年) 父池辺吉十郎と共に玉名市横島に一家転居。吉十郎は藩士として秀でた武人であり、西南戦争の時、熊本隊を率いて西郷隆盛軍に参加するが、1877年(明治10年)に処刑されるという非運に見舞われた[1]。吉太郎が14歳の時であり、それからつぶさに辛酸をなめ、そのために老成重厚の風格を長じるようになった。

少年時代から文墨に親しみ、十四、五歳の時から詩文も巧みで、父の友人である朱子学の碩学・国友古照軒の門で漢学を修め、父の親友である鎌田景弼の援助で十八歳の時に上京して中村敬宇同人社で学ぶ[3]。同人社では、のちの刑事検察の大御所である小林芳郎と出会う。小林の方が7歳ほど年上であった[4]。のち慶應義塾に学んだが、鎌田が佐賀県令に任命されると中退して佐藤潤象、高橋長秋と共に佐賀県の役人となる[5][6]

1888年明治21年)鎌田が病没すると官吏を辞して、東海散士芝四朗と共に大阪で『経世評論』を創刊して主筆を務め、条約改正反対を唱え、論陣を張った。1892年明治25年)師・国友古照軒の息子である国友重章の推薦で、陸羯南が主宰していた日本新聞の客員となる。ここで同郷の鳥居素川と知り合う。当時保守主義の日本新聞と、同郷熊本出身の徳富蘇峰が率いる進歩主義の国民新聞が相対立して論戦を張っていた。

1892年(明治25年)旧藩主・細川家の細川護成フランス留学することとなり、旧藩士の子弟からご学友が選ばれることとなり、衆望一致して三山が選ばれ随伴して留学する[1]ヨーロッパ5カ国を訪問、。鉄崑崙の筆名で新聞「日本」に特別通信した「巴里通信」が評判を呼んだ[1]。特に当時の日本外交の最重要課題だった条約改正問題について、独自の主張をするのではなく、当時のイギリスやフランスなどでの外交界で、日本が清と同盟を組んで、アジアに一大勢力圏を作るのではないかと話題になっているなど[7]、真実の報道、解説、批判に重きを置く文章が光彩を放った[8]

1896年(明治29年)に帰国すると、大阪朝日新聞の主筆だった高橋健三が、陸羯南の推挙によって第2次松方内閣内閣書記官長に任じられることになり、高橋の推挙で大阪朝日新聞に後任の主筆として入社[1]1898年明治29年)東京朝日新聞主筆となり、大阪朝日新聞主筆の後任に同郷の弟分である鳥居素川を推薦する[1]1904年(明治37年)の日露戦争開戦においては政府の弱腰を叩き、1905年(明治38年)の日露終戦後は 日露講和条約(ポーツマス条約)に飽き足らずと第1次桂内閣を攻撃し、東京朝日(15日)、大阪朝日ともに発行停止を命じられた[9]。 平明、達意、重厚な論調で日本外交の大事件でも公明正大で高い識見の言論を展開して、政治思想文芸など多方面に影響を与え、朝日新聞隆盛の礎を築いた一人となった。

草枕』を読んで感心した鳥居素川の推薦を受けて夏目漱石や、二葉亭四迷を入社させ[1]1906年(明治39年)10月二葉亭四迷が小説『其面影』を連載、夏目漱石が 1907年(明治40年)6月から小説『虞美人草』を連載、朝日新聞の権威を高めるとともに、今日文豪と言われる作家の長編小説を新聞連載に尽力した。

1907年(明治40年)日露戦争で従軍法務官として満州に出征した際、現地ルポを寄稿したことで弓削田精一が推薦した渋川玄耳を東京朝日新聞へスカウトする。1911年(明治44年)の夏、熊本から上京した新聞記者志望の早稲田大学学生・ 伊豆富人(のち熊本日日新聞初代社長)に、「新聞記者は名利の外に超越して、利益で釣っても動かず、力で制圧しようとしても屈せぬ信念を持って正義を貫き、国家社会を指導するものだ。もし少しでも名利栄達を願う心があるならば、新聞記者になるのをやめたほうがいい。」と諭して亡くなるまで指導した[10]清浦奎吾が推薦した牧野輝智(のち朝日新聞編集主幹、経済学博士)を東京朝日新聞社へ入社させるなど[11]、のちの大記者たちに影響を与えた。1911年(明治44年)の秋に東京朝日新聞を退職する。

1912年(明治45年)に母・世喜が亡くなると、三山も同年2月28日に後を追うように心臓発作で亡くなった[1]。享年49。親交があった天田愚庵が「三慈堂」と書いた額を贈ったほど孝心深かった三山は、母の喪に服すために肉食を断ったことで、持病の脚気を悪化させたことが原因と言われる[12]

鳥居素川は、「池辺三山兄逝く。われ慟哭せざらんと欲するも得んや。」ではじまる『三山師兄を哭す』という題の追悼文を東京朝日新聞に掲載、読者に大きな反響を呼んだ。1928年(昭和3年)に同県人の古城貞吉、狩野直喜京都帝国大学教授)、鳥居素川、中島為喜の四人が中心となって、三山の詩、画、文章を編集して、『三山遺芳』を刊行した[13]

思想・主義

三山は温かい人柄で知られ、漱石をはじめ多くの人に慕われた。また、明治政府首脳とたびたび面会し、ロシアとの開戦を唱える主戦論派でもあった。日露戦争開戦後は挙国一致を紙面で訴えて政府に惜しみなく協力した。しかし、ポーツマス条約の講和内容に憤慨し、一転して明治政府を非難する記事を掲載したために、政府によって新聞の長期発刊停止処分を受ける。

「新聞は商品であり、記者はその商品を作る職人」
「文章は平明で達意であるべし」

このような彼の持論は朝日新聞の編集方針となり、同社の近代化に大きな貢献を果たした。

窪田空穂と面会した際、「この頃の学校出の役人の文章を見ると、悪い風があっていけない。何ていうのかな、まあ、新聞の文章の真似をしたという風がある。ああいう人たちこそ、文章を改良して行くべきだのに、かえって新聞なんて、文章にも成っていない物の真似をするなんて、困ったものだ。文章には文字の働きってものがなくちゃね」と語ったという[14]

父が殉じた西郷を思わせる巨漢で、東京朝日新聞時代の部下だった石川啄木に「大いなる彼の身体が/憎かりき/その前にゆきて物を言ふ時」(『一握の砂』)と歌に詠まれた。

著作

関連書籍

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j コラム「日本の新聞人」”. ニュースパーク(日本新聞博物館). 2022年2月26日閲覧。
  2. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 88頁。
  3. ^ 伊豆富人『新聞に生きる』P.67、時事通信社、1970年
  4. ^ 『小林芳郎翁伝』 (望月茂、壷誠社、1940年)
  5. ^ 宮部敬治・編『巴里通信 他』朝日新聞社、1984年、164頁。 
  6. ^ 桑野豊助『財界人ものがたり くまもと 明治・大正・昭和』,P15.16,熊本日日新聞社,1981年
  7. ^ 『回想笠信太郎』p.231、笠信太郎追悼集刊行会、1968年
  8. ^ 伊豆富人『新聞に生きる』P.67、時事通信社、1970年
  9. ^ 『熊本の先覚者たち』p.179、熊本県教育委員会、1968年
  10. ^ 伊豆富人『新聞に生きる』P.17.18、時事通信社、1970年
  11. ^ 伊豆富人『新聞に生きる』p.109「経済学者としても一流の牧野」、時事通信社、1970年
  12. ^ 『熊本の先覚者たち』p.181、熊本県教育委員会、1968年
  13. ^ 『熊本の先覚者たち』p.182、熊本県教育委員会、1968年
  14. ^ 大岡信編『窪田空穂随筆集』岩波書店、1998年6月、164頁。 

外部リンク


池辺三山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 08:02 UTC 版)

思ひ出す事など」の記事における「池辺三山」の解説

東京朝日新聞主筆1907年漱石朝日新聞社招いた漱石修善寺から帰ったあと、長与病院入院しながら「思い出すことなど」の原稿書いていたら、余計な事だ叱りつけた(4章)。1911年9月社内内紛から東京朝日新聞退社

※この「池辺三山」の解説は、「思ひ出す事など」の解説の一部です。
「池辺三山」を含む「思ひ出す事など」の記事については、「思ひ出す事など」の概要を参照ください。

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