「虚説」の広まりについて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:18 UTC 版)
「義経=ジンギスカン説」の記事における「「虚説」の広まりについて」の解説
文久2年(1862)年に刊行された谷川士清の『倭訓の栞』中編巻28「よしつね」の項では『鎌倉実記』の「金史別本」を偽作とし、長崎年寄で書物改役の後藤貞栄(さだえ)と思われる人物の説として、「清を清和の清にて義経の末ということ、図書集成にも見えず、金史も亦いぶかし」と記している(『増補語林倭訓栞』国書刊行会本)。 伊勢貞丈も『安藤随筆』巻5で『鎌倉実記』の「金史別本」を偽書とし、『図書集成』の序にある義経の話も大嘘であるし、同書の序を確認したがなかったと記している。 『倭訓の栞』は清の門々に掛かっていたとされる義経像とされるものについては来日した清人に聞くと太祖の図であるが、長崎諏訪社の義経弓流しの絵馬みたいなもので、新保の人の話は単に似ているだけとしている。 橘南谿の『北窓瑣談(ほくそうさだん)』は、寛政年間 の記事を中心とするが、後編巻一には「往年唐土(もろこし)より大清会典(たいせい(ママ)かいてん)」という書を関東に献ぜし事のありし。其中に、今の清朝は清和源氏の流れにして、源義経の末裔なる事を載せたり」とある。その副本一部を長崎の唐通詞神代氏が写し留めて家蔵していたが、その息子の太仲(たいちゅう)が南谿たちに内容を語ったという。続けて同書は木村兼葭堂も持っており、ある大名に差し上げたが蒹葭堂は清和源氏のことは記憶がないという。恐らく虚説で太仲が幼少の頃の出来事なので見間違いだろうとする。 恩田蕙楼(おんだけいろう)の『竈北瑣語(そうほくさご)』では、「図書輯勘(としょゆうかん)」が「香祖筆記」となっているほか、松前広長の『夷酋(いしゅう)列像附録』にも「清朝撰するところの図書集成中に、源延尉韃靼に到れるよしをのせたりとぞ……」とあり松前藩の文人家老までもが、不確かな記述を行っている。一般には『鎌倉実記』『国学忘貝』のその物や、反論書を読むことなく清祖が義経だとする虚説、口碑が広く浸透していたと思われる。
※この「「虚説」の広まりについて」の解説は、「義経=ジンギスカン説」の解説の一部です。
「「虚説」の広まりについて」を含む「義経=ジンギスカン説」の記事については、「義経=ジンギスカン説」の概要を参照ください。
- 「虚説」の広まりについてのページへのリンク