「虚偽不可能」の詭弁1
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 08:26 UTC 版)
「エウテュデモス (対話篇)」の記事における「「虚偽不可能」の詭弁1」の解説
ディオニュソドロスとエウテュデモスが、挑発的な主張に怒ったクテシッポスを相手に、「有らぬものを言うことはできない」=「嘘をつくことはできない」という詭弁を披露。 ディオニュソドロスはソクラテス等に向かって、「クレイニアスが本当に知恵のある者になることを望んでいるのか」と問う。ソクラテスはもちろん本気だと応じる。ディオニュソドロスは、「「知恵の無い者」から「知恵のある者」になるということは、「愚かな者」から「愚かであらぬ者」になることであり、「ある者」から「あらぬ者」になることであり、クレイニアスの関係者はクレイニアスが亡くなることを願っているのだ」と指摘する。これを聞いたクテシッポスは激昂し、どうしてそんな嘘をつくのかと罵倒する。 すると、エウテュデモスがクテシッポスに「嘘をつく」ことについて問う。果たして「嘘をつく」ということが本当に可能だと思っているのかと。クテシッポスは、当然だと応じる。エウテュデモスは、「嘘をつく」行為は対象に関して「言って」成されるのか「言わず」に成されるのか問う。クテシッポスは、「言って」だと答える。エウテュデモスは、「言う」という行為は「有るものども」の内の「当の対象」について述べていると指摘。クテシッポスも、同意する。エウテュデモスは、ディオニュソドロスもまた「有るものども」の1つについて述べていると指摘。クテシッポスも、同意する。エウテュデモスは、それでは「有るもの」について言っているのであって、嘘をついていないと指摘。クテシッポスは、しかし先程のディオニュソドロスの発言は「有るもの」を言っているのではないと食い下がる。 エウテュデモスは、「有らぬもの」は「有らぬ」し、どこにおいても「有るもの」ではないと指摘。クテシッポスも、同意する。エウテュデモスは、では人がある行いをして「有らぬもの」を「有るもの」にすることができるか問う。クテシッポスは、否定する。エウテュデモスは、しかし弁論家は大衆の中で語る時、何も成さないのか問う。クテシッポスは、成すと答える。エウテュデモスは、それでは語ることは成すことであり、作ることだと指摘。クテシッポスも、同意する。エウテュデモスは、それでは「言う」ことは常に何かを作るのだから、「有らぬもの」を「言う」ことなどできないし、「嘘をつく」こともできないと指摘、ディオニュソドロスも嘘は言っていないと述べる。クテシッポスは、確かにディオニュソドロスは「有るもの」について「ある仕方」で言ってはいるが、「事実ある通り」に述べているわけではないと指摘。 エウテュデモスは、物事を「事実ある通り」に述べることができる人がいるのか問う。クテシッポスは、「善美な人々」や「本当のことを言う人」たちがそうであると答える。エウテュデモスは、「善いもの」は「善く」あり、「悪いもの」は「悪く」あるのではないかと指摘。クテシッポスも、同意する。エウテュデモスは、では「善美な人々」は「悪いもの」を「悪く」言うのだと指摘。クテシッポスは、同意しつつ、エウテュデモス等が(先程のような発言によって)「善美な人々」に「悪く」言われることがないように用心するよう忠告する。エウテュデモスは、それでは「温かい人」を「温かく」言うのかと問う。クテシッポスは、同意しつつ、(先程のような発言をする)「冷たい人々」を「冷たい」と言うと述べる。するとディオニュソドロスが、それは当てこすりだと怒る。 ソクラテスは、両者をなだめるために茶化しを入れつつクテシッポスに学ぶ姿勢を持つことを忠告する。クテシッポスは、自分はそうした姿勢を持っているし、ディオニュソドロスが立派に言ってないと思われることに対して反論しているだけだと答え、ディオニュソドロスに自分の反論を許すこと、そしてそれを当てこすりと呼ばないよう要請する。
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