任官問題とは? わかりやすく解説

任官問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:05 UTC 版)

源義経」の記事における「任官問題」の解説

頼朝義経平氏追討派遣しなかったのは、無断任官対す制裁などではなく京都治安維持義経が必要であり公家側の強い要望あったからである。後白河院義経治安維持活動期待して検非違使左衛門尉任じた。しかしその結果義経後白河院側近編成されたことになり、幕府への奉仕不可能になったため、それが頼朝怒り招いたのである。さらに壇ノ浦合戦後、義経鎌倉拘束せず京都帰したのは、院御厩司に補され院の側近となった義経利用して後白河院挑発するためであった頼朝後白河院頼朝追討宣旨を出さざるを得ないように追い込んだ結果多く政治的要求突きつけることに成功したのである

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源義経」の記事における「任官問題」の解説

頼朝との対立原因については、確かに『吾妻鏡』元暦元年1184年八月十七日条には、同年8月6日、兄の許可を得ることなく官位受けたことで頼朝怒りを買い、追討使猶予されと書かれている。しかし、同じく『吾妻鏡』八月三日条によると、8月3日頼朝義経伊勢国平信兼追討指示しているので、任官以前義経西海遠征から外れていたとも考えられるまた、同月26日義経平氏追討使の官符を賜っている。源範頼平氏追討使の官符賜ったのが同29日なので、それより早い。つまり、義経平氏追討使を猶予され記録はないのである。よって、『吾妻鏡』十七日条は、義経失脚後、その説明をするために創作されたものと思われる

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