任官・昇進・兼官など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 22:36 UTC 版)
弁官はその職掌上、実務に堪能な者を必要とすることから、少弁に任官後は順送りに昇進し(例、右少弁→左少弁→右中弁→権左中弁→左中弁→右大弁→左大弁)、大弁まで一貫して弁官を務める者も多かった。もちろん、少弁から中弁に昇進せずに弁官を離れる例や、少弁を経ずに直接中弁に任じられる例も少なくない。中弁を経ずに大弁に直任されるのは稀な例であった。 少弁は五位を原則とし、少弁に在任中に四位に叙されると少弁を辞める例であった。従って、少弁から中弁へと昇進する場合、正五位下で少弁から中弁に転任し、中弁となってから従四位下に叙されるのが一般的であった。 左大弁・右大弁は参議が兼帯する例も多かった。また、非参議四位の大弁・中弁が蔵人頭に補される例は多く、頭弁と称した。非参議の左大弁・右大弁は参議へ昇進する資格があった。また、左中弁で年労のある者も参議への昇進資格があったが、参議が左中弁を兼帯することはないため、参議に任じられる際に大弁に欠員がなく右大弁以上に転任できなければ、左中弁を辞め、弁官を離れることになっていた。 少弁や五位中弁で五位蔵人を兼任する例も多かった。特に、五位蔵人・衛門権佐・少弁(または五位中弁)の三つを兼任することは「三事兼帯」と呼ばれ、諸大夫出身の実務官人にとって名誉なことであった。 弁官とともに公卿への重要な昇進コースであった近衛中将・少将が弁官を兼ねる例は、平安時代の前期まで時々見られた。中将が大弁や中弁を兼ねる例は、寛平9年(897年)6月19日に左中将を止めた参議左大弁源希が最後である。その後も少将が弁官を兼ねる例は稀に見られたが、永延3年(989年)4月5日に左少将藤原伊周が右中弁を兼ね(7月13日に左少将から右少将に転じる)、翌永祚2年(990年)7月10日に右中将に転じて右中弁を辞めたのが最後の例となった。 朝廷の力が衰退した室町時代から戦国時代にかけては、弁官は必ず蔵人(職事)を兼任し、大弁が参議を兼ねると蔵人を退く慣例があった。また、名家・羽林家級の実務官僚(特に日野流・勧修寺流)が弁官の地位を多く占めるようになる。名家や羽林家は納言・参議に進んで上卿や伝奏を務めえる家柄であり、喫緊の場合には天皇が父子ごと召し出して父(納言または参議)が上卿を務め、子(弁官・職事)が奉行して宣下を出すことも可能であった。こうしたシステムは朝廷の組織が機能しなくなり、残された実務を必要最低限の人員で効率よく動かす必要に迫られた当時の状況に即して考案された工夫であった。
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