きょうと‐しゅご〔キヤウト‐〕【京都守護】
京都守護
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/27 02:07 UTC 版)
最初は上洛時に、北条時政が任命され京都の御家人を統率、洛中の警護・裁判を行い、朝廷と幕府の間の連絡の任に当たっていたが、承久の乱後に六波羅探題が設置されたことで消滅した。
歴代一覧
- 北条時政:文治元年(1185年)11月 - 文治2年(1186年)3月
- 一条能保:文治2年(1186年)3月 - 建久5年(1194年)8月
- 中原親能:文治2年(1186年)3月 - 文治4年(1188年)
- 一条高能:建久5年(1194年)10月 - 建久9年(1198年)9月
- 中原親能:建久6年(1195年) - 承元2年(1208年)12月
- 平賀朝雅:建仁3年(1203年)10月 - 元久2年(1205年)閏7月(牧氏事件で北条義時の命令で誅殺される)
- 中原季時:元久2年(1205年)10月 - 建保7年(1219年)正月
- 伊賀光季:建保7年(1219年)2月 - 承久3年(1221年)5月(承久の乱で後鳥羽上皇軍に敗れて討死)
- 大江親広:建保7年(1219年)2月 - 承久3年(1221年)5月(承久の乱で後鳥羽上皇に味方したため、戦後に身を隠して隠棲)
なお、一条高能と平賀朝雅の間の時期について、近年発見された歴代の京都守護・六波羅探題の名前を記した『六波羅守護次第』には、(一条高能) - 土肥実平 - 牧国親 - 五条有範 - 中原親能 - 里見義直 - (平賀朝雅)と記されており、短期間に複数の京都守護が任じられていた可能性がある[1][2]。
脚注
- ^ 熊谷隆之「六波羅探題任命考 -『六波羅守護次第』の紹介とあわせて-」(『史林』86の6(2003年))
- ^ 須藤聡「鎌倉期里見一族の動向と平賀一族」 (初出:『群馬歴史民俗』31号(2010年)/所収: 田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第三巻 上野新田氏』(戒光祥出版、2011年)ISBN 978-4-86403-034-2)
京都守護
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 07:10 UTC 版)
文治元年(1185年)3月の平氏滅亡で5年近くに及んだ治承・寿永の乱は終結したが、10月になると源義経・行家の頼朝に対する謀叛が露顕する(『玉葉』10月13日条)。10月18日、後白河院は義経の要請により頼朝追討宣旨を下すが、翌月の義経没落で苦しい状況に追い込まれた。11月24日、頼朝の命を受けた時政は千騎の兵を率いて入京し、頼朝の憤怒を院に告げて交渉に入った。28日に時政は吉田経房を通じ義経らの追捕のためとして「守護・地頭の設置」を認めさせる事に成功する(文治の勅許)。 時政の任務は京都の治安維持、平氏残党の捜索、義経問題の処理、朝廷との政治折衝など多岐に渡り、その職務は京都守護と呼ばれるようになる。在京中の時政は郡盗を検非違使庁に渡さず処刑するなど強権的な面も見られたが、その施策は「事において賢直、貴賎の美談するところなり」(『吾妻鏡』文治2年2月25日条)、「公平を思い私を忘るるが故なり」(『吾妻鏡』文治2年3月24日条)と概ね好評だった一方で、『玉葉』文治2年3月24日条には「時政は九条兼実に『籍』を提出するために家司の源季長に預けたが、季長は時政の一連の行為に笑ってしまい、『時政は田舎者なので当然やりかねない』と兼実に述べた」とあるように、田舎者として恥をかくこともあった。しかし3月1日になると、時政は「七ヶ国地頭」を辞任して惣追捕使の地位のみを保持するつもりでいることを後白河院に院奏し、その月の終わりに一族の時定以下35名を洛中警衛に残して離京した。これは、『吾妻鏡』文治2年2月25日条に見える時政家来による京都での濫妨行為が関係していると見られ、時政が第2の義仲・義経になりうる可能性を含んでいたのである。後任の京都守護には一条能保が就任した。時政の在任期間は4ヶ月間と短いものだったが、義経失脚後の混乱を収拾して幕府の畿内軍事体制を再構築し、後任に引き継ぐ役割を果たした。 鎌倉に帰還した時政は京都での活躍が嘘のように、表立った活動を見せなくなる。文治5年(1189年)6月6日、奥州征伐の戦勝祈願のため北条の地に願成就院を建立しているが、寺に残る運慶作の諸仏はその3年前の文治2年(1186年)から造り始められており、本拠地である伊豆の掌握に力を入れていたと思われる。
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