京都学連事件
京都学連事件
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1910年代、日本の大学・高校・専門学校等ではマルクス主義を研究する社会科学研究会がしばしば組織されていた。1924年、全国49校の社研が参加する学連が発足し、マルクス主義の研究や普及、労働争議や労働者教育に関する運動を活発に行った。しかし政府は学生達の活動を危険視し、徹底的な弾圧を開始した。1925年12月、特高警察が、京大や同大の社研会員の自宅や下宿を急襲し、学生33名を検挙した。寄宿舎(吉田寮)で立会人なしの家宅捜索を行ったことが批判され、一度は全員を釈放したものの、翌1926年1月には捜査態勢を立て直し、改めて多数を検挙した。検挙された学生のうち38名が出版法および治安維持法違反、不敬罪で起訴され、37名が有罪になった。社研と繋がりのあった教員も捜査の対象になった。この事件は日本内地で治安維持法が適用された最初の事例になった。政府は当初、治安維持法を利用してマルクス主義や共産主義を取り締まっていた。しかしやがて自由主義や民主主義、社会主義、反戦運動、新宗教、右翼も同様に弾圧するようになり、いつしか国民が政府を批判することは一切許されなくなってしまった。 詳細は「京都学連事件」を参照
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京都学連事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 05:25 UTC 版)
「京都学連事件」を参照 1910年代前半より、各大学・高校・専門学校などでは社会科学研究会(社研)が組織され、1924年9月には49校の社研が参加する学生社会科学連合会(学連)が発足した。学連は瞬く間に会員1600名を擁する大組織に成長し、マルクス主義の普及・研究を標榜するとともに労働争議や労働者教育運動(京都労働学校など)への支援を積極的に行った。これに対して、マルクス主義者や共産主義者を敵視する警察は、学連の弾圧と粛清を目論んだ。 1925年11月5日、同志社大学構内の掲示板に、発売頒布禁止処分を受けた団体の反戦ビラが貼られているのを警察官が見つけた。これを好機とみた京都府警察部特高課は同年12月1日、京大と同志社の社研の中核メンバー36名を出版法違反の疑いで検束し、自宅や下宿の家宅捜索を行った。京大社研の熊谷孝雄(経済学部二年)と逸見重雄(経済学部三年)が舎生だったため、京大寄宿舎にも捜査が入った。しかし京大寄宿舎での家宅捜索は大学当局への通告なしに、本人不在、立会人不在で実施された違法捜査だった。また、京大社研のメンバーの一人が拷問で全治3ヶ月の怪我を負ったことも判明し、学内では警察を非難する声が高まった。京大当局は京都府知事と検事正に抗議し、12月7日までに検束された学生全員が釈放された。 容疑を裏付ける証拠も見つからないまま捜査は停滞し、事件はこのまま終息するかに見えた。だが司法省を中心に捜査が立て直され、翌1926年1月15日以降、各府県警察部特高課が報道を差し止めた上で、全国的に社研会員の検挙を行った。4月16日までに逸見と熊谷を含む38名が検挙され、治安維持法第二条(協議罪)および出版法違反・不敬罪で起訴された。1927年5月の第1審判決では出版法違反および不敬罪については免訴となったが、治安維持法違反で4名の禁錮1年を筆頭に37名が有罪となった。 逸見は第一審で禁錮8カ月執行猶予2年を言い渡され、控訴審で無罪となった。熊谷は第一審で禁錮8ヶ月を言い渡されて控訴したが、審理中に三・一五事件で再び検挙され、両事件併せて懲役6年の刑が確定した。熊谷は出所後、河上肇が転向したという記事を読み、悲嘆して自殺した。 京都学連事件は日本内地で治安維持法による検挙が行われた最初の事例になった。この事件以降、政府は学生の社会科学研究を禁止するなど教育や研究の統制を強め、学問の自由や大学の自治は徐々に衰退していった。 寄宿舎自治も同様に抑圧された。1933年、滝川事件が起こった。1934年1月、「学生が学校行政に干渉することになると某方面より文句が出た」として厚生課が寄宿舎規定に干渉した。12月、舎生が左翼運動に関して川端署に査問された。1937年11月、舎誌発行に際して警察の干渉を受けた。1940年、「赤化分子潜入防止」に関して学生部長に警告され、寄宿舎は舎内における思想または政治に関する会合を一切禁止した。
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