京都学連事件とは? わかりやすく解説

京都学連事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/28 02:19 UTC 版)

京都学連事件(きょうとがくれんじけん)は1925年大正14年)12月以降、京都帝国大学同志社大学などでマルクス主義の研究サークルが弾圧・粛清された事件。日本内地で初めて治安維持法が適用された。


  1. ^ 京都大学百年史編集委員会『京都大学百年史:総説編』(1998年)p.335-336
  2. ^ 黒羽亮一『学校と社会の昭和史 上』p.76
  3. ^ 京都大学百年史編集委員会『京都大学百年史:総説編』(1998年)p.336-350
  4. ^ 浅見雅男『反逆する華族』平凡社、2013年、37-41頁。ISBN 978-4-582-85697-2 


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京都学連事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 03:18 UTC 版)

京都大学」の記事における「京都学連事件」の解説

1910年代日本の大学高校専門学校等ではマルクス主義研究する社会科学研究会がしばしば組織されていた。1924年全国49校の社研参加する学連発足しマルクス主義の研究普及労働争議労働者教育に関する運動活発に行った。しかし政府学生達の活動危険視し、徹底的な弾圧開始した1925年12月特高警察が、京大同大社研会員自宅下宿急襲し学生33名を検挙した寄宿舎吉田寮)で立会人なしの家宅捜索行ったことが批判され一度全員釈放したものの、翌1926年1月には捜査態勢立て直し改め多数検挙した検挙され学生のうち38名が出版法および治安維持法違反不敬罪起訴され37名が有罪になった社研繋がりのあった教員捜査対象になった。この事件日本内地治安維持法適用され最初事例になった政府当初治安維持法利用してマルクス主義共産主義取り締まっていた。しかしやがて自由主義民主主義社会主義反戦運動新宗教右翼同様に弾圧するようになり、いつしか国民政府批判することは一切許されなくなってしまった。 詳細は「京都学連事件」を参照

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京都学連事件

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京都大学吉田寮」の記事における「京都学連事件」の解説

「京都学連事件」を参照 1910年代前半より、各大学高校専門学校などでは社会科学研究会社研)が組織され1924年9月には49校の社研参加する学生社会科学連合会学連)が発足した学連瞬く間会員1600名を擁する大組織に成長しマルクス主義普及研究標榜するとともに労働争議労働者教育運動京都労働学校など)への支援積極的に行った。これに対してマルクス主義者共産主義者敵視する警察は、学連弾圧粛清目論んだ1925年11月5日同志社大学構内掲示板に、発売頒布禁止処分受けた団体反戦ビラが貼られているのを警察官見つけた。これを好機とみた京都府警察部特高課は同年12月1日京大同志社社研中核メンバー36名を出版法違反疑い検束し、自宅下宿家宅捜索行った京大社研熊谷孝雄(経済学部二年)と逸見重雄経済学部三年)が舎生だったため、京大寄宿舎にも捜査入った。しかし京大寄宿舎での家宅捜索大学当局への通告なしに、本人不在立会人不在実施され違法捜査だった。また、京大社研メンバー一人拷問全治3ヶ月怪我負ったことも判明し学内では警察非難する声が高まった京大当局京都府知事検事正抗議し12月7日までに検束され学生全員釈放された。 容疑裏付ける証拠も見つからないまま捜査停滞し事件このまま終息するかに見えた。だが司法省中心に捜査立て直され、翌1926年1月15日以降、各府県警察部特高課が報道差し止めた上で全国的に社研会員検挙行った4月16日までに逸見熊谷を含む38名が検挙され治安維持法第二条協議罪)および出版法違反不敬罪起訴された。1927年5月第1審判決では出版法違反および不敬罪については免訴となったが、治安維持法違反で4名の禁錮1年筆頭37名が有罪となった逸見第一審禁錮8カ月執行猶予2年言い渡され控訴審無罪となった熊谷第一審禁錮8ヶ月言い渡され控訴したが、審理中に三・一五事件で再び検挙され、両事件併せて懲役6年の刑が確定した熊谷出所後、河上肇転向したという記事読み悲嘆して自殺した。 京都学連事件は日本内地治安維持法による検挙が行われた最初事例になった。この事件以降政府学生社会科学研究禁止するなど教育研究統制強め学問の自由大学の自治徐々に衰退していった。 寄宿舎自治同様に抑圧された。1933年滝川事件起こった1934年1月、「学生学校行政干渉することになると某方面より文句出た」として厚生課が寄宿舎規定干渉した12月、舎生が左翼運動に関して川端署に査問された。1937年11月、舎誌発行に際して警察干渉受けた1940年、「赤化分子潜入防止に関して学生部長に警告され寄宿舎は舎内における思想または政治に関する会合一切禁止した

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