京都学連事件とは? わかりやすく解説

京都学連事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/25 13:52 UTC 版)

京都学連事件(きょうとがくれんじけん)は1925年大正14年)12月以降、京都帝国大学同志社大学などでマルクス主義の研究サークルが弾圧・粛清された事件。日本内地で初めて治安維持法が適用された。

経緯

背景

1910年代前半より、各大学高校専門学校などでは社会科学研究会(社研)が組織され、1924年9月には49校の社研が参加する学生社会科学連合会(学連)が発足した。学連は瞬く間に会員1600名を擁する大組織に成長し、マルクス主義の普及・研究を標榜するとともに労働争議や労働者教育運動(京都労働学校など)への支援を積極的に行った。しかし、学生らの活動は警察の注意を引き、妨害を受けることが多くなった[1]

検挙

1925年11月15日、同志社大学構内の掲示板に軍事教育反対運動のビラが貼られているのが見つかった。京都府警察部特高課はこれを好機とみて、京都帝大・同志社大などの社研会員の自宅・下宿などを急襲、家宅捜索および学生33名を検束した。しかし川端署の刑事が京大寄宿舎に大学側に無断であがりこみ、本人不在、立会人不在の家宅捜索を行ったため、京大当局の抗議に遭い府知事が陳謝した。12月7日までに全員が釈放[2]

しかしその後、司法省を中心に本格的検挙に向けて態勢が立て直され、翌1926年1月15日には東京検事局の平田勲らが指揮を執り、記事報道を差し止めた上で各府県警察部特高課を動員して以後4ヶ月にわたって全国的な社研会員の検挙が行われた。同時に社研に関係があると見なされた京大の河上肇、同大の山本宣治河野密関学河上丈太郎新明正道ら教員に対しても家宅捜索が行われた(このうち山本は捜索を理由に同大を免職となった)[3]

検挙された学生のうち38名が治安維持法および出版法違反・不敬罪により起訴された。京都地裁による1927年5月の第1審判決では出版法違反および不敬罪については特赦となったが、治安維持法違反については是枝恭二東大文)ら4名の禁固1年を筆頭に37名が有罪となった。弁護人と検察は共に控訴し、その後の三・一五事件の影響で公判は紆余曲折の経緯をたどり、1929年12月の大阪控訴院判決では18名に対し懲役7年以下とより厳しい量刑となった。そして1930年5月、大審院による上告棄却で有罪が確定した。

影響

1926年6月29日、岡田良平文部大臣はこの事件を受けて学生・生徒による社会科学研究の禁止を通達、1928年4月17日には東京帝大が新人会に解散命令を出し、以降各帝大社研に解散命令が下された。東大新人会は1929年11月7日に解散を声明した。

特筆事項

日本内地では最初の治安維持法適用事件である。この事件が起こった時点では日本共産党は再建されておらず(1926年12月の五色温泉での第3回大会により再建)、社研という単なる学生の思想研究団体にこの法を適用するのは無理があったとされる。しかし予審決定書では「私有財産制度の破壊」について同法第2条の協議罪が適用された。

被告人たち

年表

  • 1925年12月1日:この日早朝、京都府警特高課が京大・同大などの寄宿舎、両大学の社会科学研究会員の自宅・下宿を急襲、家宅捜索の上「不穏文書」多数を押収したほか学生33名を検束。
  • 1925年12月7日:この日までに全学生が釈放。
  • 1926年1月14日:当局による新聞記事の掲載差し止め措置。
  • 1926年1月15日:各府県警察部特高課を動員し全国の社研会員を検挙。
  • 1926年9月15日:予審決定に伴い新聞掲載解禁。「学生の不祥事」キャンペーン。
  • 1926年9月18日:学生38名が治安維持法違反などで起訴。
  • 1927年4月:京都地裁で第1回公判。弁護人に清瀬一郎など8名。
  • 1927年5月30日:第1審判決。治安維持法違反について37名が有罪。被告人、検察ともに控訴。
  • 1928年3月5日:大阪控訴院で第2審公判開始。
  • 1928年3月15日:三・一五事件。被告人17名が連座して出廷不能となり公判が分離。
  • 1929年9月:一時中断されていた公判が再開。審理は傍聴禁止。
  • 1929年12月:三・一五に関与していない被告人21名に対し判決。3名が無罪。有罪の18名は大審院に上告。
  • 1930年5月:大審院は上告を棄却。判決確定。

関連書籍

脚注

  1. ^ 京都大学百年史編集委員会『京都大学百年史:総説編』(1998年)p.335-336
  2. ^ 黒羽亮一『学校と社会の昭和史 上』p.76
  3. ^ 京都大学百年史編集委員会『京都大学百年史:総説編』(1998年)p.336-350
  4. ^ 浅見雅男『反逆する華族』平凡社、2013年、37-41頁。 ISBN 978-4-582-85697-2 

関連項目

外部リンク


京都学連事件

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京都大学」の記事における「京都学連事件」の解説

1910年代日本の大学高校専門学校等ではマルクス主義研究する社会科学研究会がしばしば組織されていた。1924年全国49校の社研参加する学連発足しマルクス主義の研究普及労働争議労働者教育に関する運動活発に行った。しかし政府学生達の活動危険視し、徹底的な弾圧開始した1925年12月特高警察が、京大同大社研会員自宅下宿急襲し学生33名を検挙した寄宿舎吉田寮)で立会人なしの家宅捜索行ったことが批判され一度全員釈放したものの、翌1926年1月には捜査態勢立て直し改め多数検挙した検挙され学生のうち38名が出版法および治安維持法違反不敬罪起訴され37名が有罪になった社研繋がりのあった教員捜査対象になった。この事件日本内地治安維持法適用され最初事例になった政府当初治安維持法利用してマルクス主義共産主義取り締まっていた。しかしやがて自由主義民主主義社会主義反戦運動新宗教右翼同様に弾圧するようになり、いつしか国民政府批判することは一切許されなくなってしまった。 詳細は「京都学連事件」を参照

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