沢柳事件とは? わかりやすく解説

澤柳事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/27 15:34 UTC 版)

澤柳政太郎

澤柳事件(さわやなぎじけん)は、1913年大正2年)から1914年(大正3年)にかけて京都帝国大学(現京都大学)で起こった、総長(学長)と学部教授会との間の内紛事件。「京大事件」とも呼ばれ、大学における教授会自治を確立させるきっかけとなった事件として知られている。

概要

1908年明治41年)9月2日、菊池大麓が京都帝国大学総長に着任[1]。この菊池の退官に伴い、1912年(明治45年)5月13日に後継の総長として久原躬弦が任命されるが[2]、久原の着任後から教授や学生が総長に反発する事案が発生した。これを受けて奥田義人文部大臣は1913年(大正2年)5月、学校内騒動の鎮圧に定評のあった東北帝国大学総長の澤柳政太郎を後任の総長として任命した。

1913年(大正2年)7月12日、文部省の任命で就任して2ヵ月になったばかりの澤柳政太郎京都帝国大学総長は、教学の刷新を標榜して以下の7教授に辞表を提出させ、8月5日に免官を発令した[3]

罷免された7教授の中には、以前から学内自治を主張していた谷本が含まれていたこともあり、京都帝大法科大学(現・京大法学部)の教授・助教授たちは仁保亀松学長(現在の学部長)を中心に結束し、教授の人事権は教授会にありと主張した。これに対し澤柳総長は、教授の地位を保つのはその実であって制度的保障はなく、また現行制度においても教授の任免に教授会の同意は必要でないと反論した[4]。この罷免に関して、奥田文相は教授内職問題なども関係していると述べ、文部省は澤柳総長の独断行動ではなく、任免については久原総長時代からの問題と表明した[5]。法科教授らは、同月に教授会に基づく任免権などを求める意見書を作成、同年12月には『京都日出新聞』等を介して地域に広く訴えた。

文部省並びに総長と法科の対立は激化し、1914年(大正3年)1月14日に法科教授・助教授は抗議の連帯辞職を敢行した[注釈 1]。法科学生や東大法科の首脳も教官を支持した。1月23日、奥田は「教授ノ任免ニ付テハ総長カ職権ノ運用上教授会ト協定スルハ差支ナク且ツ妥当ナリ」と法科の主張を認めた。これを受けて教官は辞職を撤回。同年4月28日に澤柳総長が依頼免官したことから、医学博士の荒木寅三郎教授が総長事務取扱となる[7]。同年8月19日より後任総長は山川健次郎東京帝大総長が兼任した[8]。新総長の山川と枢密顧問官の旧総長・菊池大麓が候補者を選定するが、教授会は排斥して応じず、総長事務取扱の荒木が総長選挙規則を作成して選挙を行った。1915年(大正4年)6月に当選した荒木寅三郎が総長に就任した[9]

影響

教官の人事権を事実上教授会が掌握するという慣行を文相が承認したことで、大学自治は大きく前進した。また京大では澤柳総長辞任後に荒木寅三郎医学部教授を総長として選出、以降総長の学内選出が確立した。

澤柳事件後は、1925年(大正14年)に京大社会科学事件(京都学連事件)、1928年(昭和3年)に河上肇事件、1933年(昭和8年)には滝川事件が発生した。澤柳事件の経緯と結末により「大学自治の本山」とみなされた京大は、1930年代以降、戦時体制の下で大学への統制を進めようとする勢力からは敵視されるようになり、滝川事件に見られる教授会自治への攻撃につながったとする松尾尊兊の見解もある[10]

注釈

  1. ^ 辞表を提出したのは織田萬千賀鶴太郎田島錦治仁保亀松岡村司勝本勘三郎、毛戸勝元、跡部定次郎、末広重雄、戸田海市、中島玉吉、石坂音四郎雉本朗造市村光恵佐藤丑次郎小川郷太郎佐々木惣一の教授17名、山本美越乃山田正三の助教授2名[6]

脚注

  1. ^ 『京都大学百年史 総説編』p.197
  2. ^ 『京都大学百年史 総説編』p.211
  3. ^ 『京都大学百年史 総説編』p.217、p.221
  4. ^ 『京都大学百年史 総説編』p.222-223
  5. ^ 日出新聞社『滝川教授事件 京大自治闘争史』澤柳事件とは何か、10頁
  6. ^ 『京都大学百年史 総説編』p.226
  7. ^ 『京都大学百年史 総説編』p.235
  8. ^ 『京都大学百年史 総説編』p.238
  9. ^ 『京都大学百年史 総説編』p.242
  10. ^ 松尾尊兊 『滝川事件』 岩波現代文庫2005年、pp.147-149

関連文献

関連項目


沢柳事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 05:25 UTC 版)

京都大学吉田寮」の記事における「沢柳事件」の解説

詳細は「沢柳事件」を参照 京都帝国大学では学問の自由大学の自治観点から、慣行的に教授任免教授会が行ってきた(教授会自治)。しかし1913年文部省任命した澤柳政太郎総長は、教授会同意なく文科大学理工大学の7名の教授免官した。法科大学(後の法学部)は仁保亀松学長中心に結束し、「教授人事権教授会にあり」と澤総長反旗を翻した。澤総長法科対立徐々に激化し、翌1914年1月15日法科全ての教授助教授抗議連帯辞職宣言する事態発展した。 築半年足らずの新寄宿舎もこの騒動巻き込まれた。この時点で新寄宿舎には117名の舎生がいたが、約半数60名弱は法科所属していたからである。教官失いそうになった法科学生は直ち行動開始した。同15日法科学生は臨時学生大会開催し最初に32名の委員選出した。6名は旧寄宿舎か新寄宿舎の舎生であった続いて吾人京都法科大学々生は誓て教官留任期す」こと、委員11名を東京派遣することを決議した上京委員東京行の汽車飛び乗り、翌16日午後に東京新橋降り立った一方京都残留委員は新寄宿舎会議室に「本部」を置き、以後はここを拠点運動をした。舎生の半数事件当事者だったこと、(当時にしては珍しく電話通じていたことが理由考えられる17日上京委員は早速、澤総長奥田義人文部大臣訪ねて意見交換陳情行った京都残留委員第一回学生大会決議文を「吾人京都法科大学々生は大学の自治学問独立為に、誓て教官留任期す」に修正する案を次回学生大会附す決め委員2名を東京追加派遣した18日上京委員は「本事件解決必ずや名士仲介によるべき」と予想し学会名士といわれる人々訪ね仲介要請する戦術を採った。しかし彼らは多忙ゆえ、中々面会叶わないのは悩みどころであった19日上京委員はこの日、元文相で前総長菊池大麓と、元文相の濱尾新訪ね菊池には面会拒否されたものの、濱尾との面会はかない充分に思うところ述べることができた。一方京都では二回目学生大会開催され決議文修正は「自明の理にしてその必要なし」と否決された。世間では新聞法科糾弾し有識者京大法科の廃止東大法科との合併主張するなどしており、法科学生はひどく気分悪くした。20日、三回目学生大会開催され、以下の決議文採択された。「吾人京都法科大学々生は、教官主張にして容れられざらんか、誓て教官各位進退を共にせんことを期す情勢変えるための博打であった21日上京委員法学者岡松参太郎訪ねた。本来、法学者富井政章訪ねる予定だったが、多忙につき面会は叶わなかった。一方法科学生は決議文を含む「宣言書」を公開し不退転の決意固めた。また奥田文相再度会見をするため、3名の委員宣言書携えて上京することとなった22日上京委員は3名と合流して大臣邸に向かった。彼らは奥田文相と約30分間面会し宣言書手渡して学生決心固いことを伝えることに成功した委員らは相当な手応え感じたようである。同日には富井政章と、同じく法学者穂積重遠仲介乗り出してくれるという嬉しニュース入ってきた。委員らは予想的中喜び以後運動停止し状況静観することとした。そして23日奥田文相は「教授任免ニ付テハ総長職権運用教授会協定スルハ差支ナク且ツ妥当ナリ」と(法科主張する教授会自治認め連帯辞職退学未然回避された。28日最後学生大会開かれ経緯会計報告が行われた。辞職撤回した教官たちの姿もあった。事件円満解決一同嬉々としており、仁保学長挨拶の後、全員法科大学歳を三唱した奥田文相梯子外された澤総長同年4月辞任京大去った。この事件機に京大を含む、国内の大学自治学問の自由大きく前進したとされる京大では総長学内選出行われるようになった。 ところで当時、新寄宿舎の舎生は月に一度手書きの舎内雑誌作成していたが、1914年1月には「大爆発号」を臨時増刊している。この号には桜島大正噴火と沢柳事件についての記事落書きなどが多数収録されている。

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