澤柳事件
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澤柳事件(さわやなぎじけん)は、1913年(大正2年)から1914年(大正3年)にかけて京都帝国大学(現京都大学)で起こった、総長(学長)と学部教授会との間の内紛事件。「京大事件」とも呼ばれ、大学における教授会自治を確立させるきっかけとなった事件として知られている。
概要
1908年(明治41年)9月2日、菊池大麓が京都帝国大学総長に着任[1]。この菊池の退官に伴い、1912年(明治45年)5月13日に後継の総長として久原躬弦が任命されるが[2]、久原の着任後から教授や学生が総長に反発する事案が発生した。これを受けて奥田義人文部大臣は1913年(大正2年)5月、学校内騒動の鎮圧に定評のあった東北帝国大学総長の澤柳政太郎を後任の総長として任命した。
1913年(大正2年)7月12日、文部省の任命で就任して2ヵ月になったばかりの澤柳政太郎京都帝国大学総長は、教学の刷新を標榜して以下の7教授に辞表を提出させ、8月5日に免官を発令した[3]。
- 天谷千松(医科大学=現医学部、生理学)
- 吉田彦六郎(理工科大学=現理学部・工学部、有機化学)
- 横堀治三郎(理工科大学、冶金学)
- 三輪桓一郎(理工科大学、数学)
- 村岡範為馳(理工科大学、放射線物理学)
- 吉川亀次郎(理工科大学、電気化学)
- 谷本富(文科大学=現文学部・教育学)
罷免された7教授の中には、以前から学内自治を主張していた谷本が含まれていたこともあり、京都帝大法科大学(現・京大法学部)の教授・助教授たちは仁保亀松学長(現在の学部長)を中心に結束し、教授の人事権は教授会にありと主張した。これに対し澤柳総長は、教授の地位を保つのはその実であって制度的保障はなく、また現行制度においても教授の任免に教授会の同意は必要でないと反論した[4]。この罷免に関して、奥田文相は教授内職問題なども関係していると述べ、文部省は澤柳総長の独断行動ではなく、任免については久原総長時代からの問題と表明した[5]。法科教授らは、同月に教授会に基づく任免権などを求める意見書を作成、同年12月には『京都日出新聞』等を介して地域に広く訴えた。
文部省並びに総長と法科の対立は激化し、1914年(大正3年)1月14日に法科教授・助教授は抗議の連帯辞職を敢行した[注釈 1]。法科学生や東大法科の首脳も教官を支持した。1月23日、奥田は「教授ノ任免ニ付テハ総長カ職権ノ運用上教授会ト協定スルハ差支ナク且ツ妥当ナリ」と法科の主張を認めた。これを受けて教官は辞職を撤回。同年4月28日に澤柳総長が依頼免官したことから、医学博士の荒木寅三郎教授が総長事務取扱となる[7]。同年8月19日より後任総長は山川健次郎東京帝大総長が兼任した[8]。新総長の山川と枢密顧問官の旧総長・菊池大麓が候補者を選定するが、教授会は排斥して応じず、総長事務取扱の荒木が総長選挙規則を作成して選挙を行った。1915年(大正4年)6月に当選した荒木寅三郎が総長に就任した[9]。
影響
教官の人事権を事実上教授会が掌握するという慣行を文相が承認したことで、大学自治は大きく前進した。また京大では澤柳総長辞任後に荒木寅三郎医学部教授を総長として選出、以降総長の学内選出が確立した。
澤柳事件後は、1925年(大正14年)に京大社会科学事件(京都学連事件)、1928年(昭和3年)に河上肇事件、1933年(昭和8年)には滝川事件が発生した。澤柳事件の経緯と結末により「大学自治の本山」とみなされた京大は、1930年代以降、戦時体制の下で大学への統制を進めようとする勢力からは敵視されるようになり、滝川事件に見られる教授会自治への攻撃につながったとする松尾尊兊の見解もある[10]。
注釈
- ^ 辞表を提出したのは織田萬、千賀鶴太郎、田島錦治、仁保亀松、岡村司、勝本勘三郎、毛戸勝元、跡部定次郎、末広重雄、戸田海市、中島玉吉、石坂音四郎、雉本朗造、市村光恵、佐藤丑次郎、小川郷太郎、佐々木惣一の教授17名、山本美越乃、山田正三の助教授2名[6]。
脚注
関連文献
- 松尾尊兊 『滝川事件』 岩波現代文庫、2005年 ISBN 4006001363
- 『京都大学百年史』 京都大学百年史編集委員会、1997年
関連項目
- 澤柳政太郎 - 仁保亀松 - 谷本富
- 滝川事件
- 学問の自由#大学の自治
沢柳事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 05:25 UTC 版)
詳細は「沢柳事件」を参照 京都帝国大学では学問の自由、大学の自治の観点から、慣行的に、教授の任免を教授会が行ってきた(教授会自治)。しかし1913年、文部省が任命した澤柳政太郎総長は、教授会の同意なく文科大学と理工科大学の7名の教授を免官した。法科大学(後の法学部)は仁保亀松学長を中心に結束し、「教授の人事権は教授会にあり」と澤柳総長に反旗を翻した。澤柳総長と法科の対立は徐々に激化し、翌1914年1月15日、法科の全ての教授と助教授が抗議の連帯辞職を宣言する事態に発展した。 築半年足らずの新寄宿舎もこの騒動に巻き込まれた。この時点で新寄宿舎には117名の舎生がいたが、約半数の60名弱は法科に所属していたからである。教官を失いそうになった法科学生は直ちに行動を開始した。同15日、法科学生は臨時の学生大会を開催し、最初に32名の委員を選出した。6名は旧寄宿舎か新寄宿舎の舎生であった。続いて「吾人京都法科大学々生は誓て教官の留任を期す」こと、委員11名を東京に派遣することを決議した。上京委員は東京行の汽車に飛び乗り、翌16日午後には東京新橋に降り立った。一方、京都残留委員は新寄宿舎の会議室に「本部」を置き、以後はここを拠点に運動をした。舎生の半数が事件の当事者だったこと、(当時にしては珍しく)電話が通じていたことが理由と考えられる。17日、上京委員は早速、澤柳総長と奥田義人文部大臣を訪ねて、意見交換や陳情を行った。京都残留委員は第一回学生大会の決議文を「吾人京都法科大学々生は大学の自治学問の独立の為に、誓て教官の留任を期す」に修正する案を次回の学生大会に附すと決め、委員2名を東京に追加派遣した。18日、上京委員は「本事件の解決は必ずや名士の仲介によるべき」と予想し、学会の名士といわれる人々を訪ね、仲介を要請する戦術を採った。しかし彼らは多忙ゆえ、中々面会が叶わないのは悩みどころであった。19日、上京委員はこの日、元文相で前総長の菊池大麓と、元文相の濱尾新を訪ね、菊池には面会を拒否されたものの、濱尾との面会はかない、充分に思うところを述べることができた。一方、京都では二回目の学生大会が開催され、決議文の修正は「自明の理にしてその必要なし」と否決された。世間では新聞が法科を糾弾し、有識者が京大法科の廃止や東大法科との合併を主張するなどしており、法科学生はひどく気分を悪くした。20日、三回目の学生大会が開催され、以下の決議文が採択された。「吾人京都法科大学々生は、教官の主張にして容れられざらんか、誓て教官各位と進退を共にせんことを期す」情勢を変えるための博打であった。21日、上京委員は法学者の岡松参太郎を訪ねた。本来、法学者の富井政章を訪ねる予定だったが、多忙につき面会は叶わなかった。一方、法科学生は決議文を含む「宣言書」を公開し、不退転の決意を固めた。また奥田文相と再度の会見をするため、3名の委員が宣言書を携えて上京することとなった。22日、上京委員は3名と合流して大臣邸に向かった。彼らは奥田文相と約30分間面会し、宣言書を手渡して学生の決心が固いことを伝えることに成功した。委員らは相当な手応えを感じたようである。同日には富井政章と、同じく法学者の穂積重遠が仲介に乗り出してくれるという嬉しいニュースも入ってきた。委員らは予想の的中を喜び、以後の運動を停止し、状況を静観することとした。そして23日、奥田文相は「教授ノ任免ニ付テハ総長カ職権ノ運用上教授会ト協定スルハ差支ナク且ツ妥当ナリ」と(法科が主張する)教授会自治を認め、連帯辞職・退学は未然に回避された。28日、最後の学生大会が開かれ、経緯と会計の報告が行われた。辞職を撤回した教官たちの姿もあった。事件の円満解決に一同嬉々としており、仁保学長の挨拶の後、全員で法科大学万歳を三唱した。奥田文相に梯子を外された澤柳総長は同年4月に辞任、京大を去った。この事件を機に、京大を含む、国内の大学の自治と学問の自由は大きく前進したとされる。京大では総長の学内選出も行われるようになった。 ところで当時、新寄宿舎の舎生は月に一度、手書きの舎内雑誌を作成していたが、1914年1月には「大爆発号」を臨時増刊している。この号には桜島の大正噴火と沢柳事件についての記事や落書きなどが多数収録されている。
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