京都残留
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 07:37 UTC 版)
寿永2年(1183年)5月から6月、平氏の北陸追討軍は木曾義仲に撃破され(倶利伽羅峠の戦い、篠原の戦い)、これまで維持されてきた軍事バランスは完全に崩壊した。7月24日、宗盛は都に迫った義仲軍を防ぐために、頼盛に山科方面への出兵を要請する。頼盛は「弓箭ノミチハステ」ていることを理由に拒絶したが、宗盛に「セメフセラレ」てやむを得ず山科に向かった。 25日未明、後白河院は比叡山に脱出する。これを知った宗盛は、辰巳午両三時ばかりに(午前8時から正午にかけて)六波羅に火を放って都を退去した。ところが宗盛は、山科防衛に出動していた頼盛に都落ちを知らせていなかった。頼盛は都落ちを聞くと、子の為盛を宗盛のもとに差し向けて事情を問い詰めるが、宗盛は動揺するばかりで明確な返答はなかった。宗盛にすれば後白河院に逃げられたことで混乱の極みにあり、単に連絡を忘れただけだったのかもしれないが、頼盛にしてみれば前線に置き去りにされたようなものだった。 頼盛は都に戻るが、すでに池殿は全焼しており後白河院に保護を求めた。この時、資盛も後白河院を頼っている。後白河院は頼盛に「サ聞食ツ。日比ヨリサ思食キ。忍テ八条院邊ニ候ヘ」と答え、八条院のもとに身を隠すことを指示した。資盛は拝謁を許されず、26日早朝に都を離れた。28日、後白河院は平氏追討・安徳帝の帰京・神器の回復の方策を立てるため、公卿議定を開いた。この議定では、頼盛の処遇も議題に上がった。吉田経房は「帰降者を成敗した例はなく、頼盛は都落ちには同調せず、一族であったため一時的に行動を共にしたに過ぎない」と発言し、他の出席者も賛同した。しかし義仲軍が都を占拠している状況では頼盛も処分を免れることはできず、8月6日に他の平氏一門とともに解官された。 解官後の頼盛は八条院の庇護を受けながら、密かに鎌倉の源頼朝と連絡を取っていたと思われる。それは、後白河院の意向を受けてのことだった可能性もある。後白河院は平氏追討の功績について、第一を頼朝、第二を木曾義仲とするなど義仲を低く評価し、頼朝の上洛に期待をかけていた。8月14日、義仲は後継天皇に自らが擁立した北陸宮を据えることを主張して後白河院の怒りを買う。そして後白河院が義仲の頭越しに寿永二年十月宣旨を頼朝に下したことで、両者の対立は決定的となった。都は極めて不穏な情勢となり、10月20日、頼盛逐電の情報が流れて騒ぎとなった。閏10月になると、親鎌倉派である一条能保(頼朝の義弟)・持明院基家(頼盛の娘婿、能保の叔父)も危険を察知して鎌倉に亡命した。
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