浪士組参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 10:20 UTC 版)
左之助は近藤勇を小頭とした六番組に所属し、文久3年2月23日入京した。 その日の夜、清河八郎は浪士たちを新徳寺に集めた。その時出席した浪士の名簿の中に、「原田庄之助」と誤記されながらも、左之助の名前を確認できる。 その後28、29日の両日にわたって、浪士たちは交代で御所を拝観した。左之助加わる六番組は、28日の昼九つ〜7つに拝観した。 その後、左之助が参加する浪士組は、意見の対立から京都残留組と江戸帰還組に別れ、左之助は近藤以下試衛場組と芹沢鴨率いる芹沢一派とともに京に残る事となった。そして3月10日、近藤・芹沢グループは会津藩に嘆願趣意書を提出し、そこにはもちろん原田左之助の名前もある。そして12日には会津藩御預かりという身分での残留資格を得た。次いで15日にはこれに7人を加えた24人が黒谷の金戒光明寺を訪れ、左之助たちは正式に会津藩の配下となることが認められた。
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